オダリスク
11 空飛ぶ絨毯で星を拾って






 皇帝に命じられ、侍女たちが皇太后とその側近を連れて出て行った。
 部屋は静寂と暗闇に沈んでいた。
 その空っぽの空間に、二人はしばらく佇んでいた。
 ツイーは目を上げて彼を窺った。
 彼もまた、真っ直ぐにツイーを見つめていた。
 その熱い、粘るような視線に囚われて、ツイーは目を反らすことができなかった。皇帝がゆっくりと近づいてきても、罠にかかったけもののように、身動きすることを忘れていた。
 皇帝が右手を振り上げる。
 軽い音が弾け、ツイーは衝撃に目をつぶる。
 左の頬に熱い痛みがあり、そうしてやっと自分が打たれたのだと気がついた。
「馬鹿者が」
 皇帝が忌々しげに吐き捨てる。ぶしつけな言葉にツイーが眉を上げると、彼はますます機嫌を損ねたのか、眉をひそめた。
「何が命は要らぬ、だ。殺されてよいとでも思っていたのか」
 ツイーは押し黙った。その通りだった。
「……だったら何だと言うのです」
 打たれた頬をそっと撫ぜると、手首のあたりで毛先が揺れた。大切に伸ばしていた髪は、今や肩口までの長さしかない。
「穏和しくしていろと言っただろう。母を煽り立てて逆上させろとは言っていない。あげく髪を切らせて……」
 苦虫を噛み潰したような顔で、彼は床にとぐろを巻いているツイーの髪の房を持ち上げた。手の中のそれをじっと見下ろし、不満げに鼻を鳴らす。そして、玩具を捨てるようにツイーの足元に放る。
「私と寝たのが耐えがたかったか。それとも、受け入れたおのれを許せなかったか。だから死にたかったのか」
 ツイーはおのれの肩を抱きしめる。
 皇帝が、握り締めていた皇太后の小刀を突き出してきた。
「おのれを許せないならおのれで死ね。屍を焼いて故郷の寺院に葬ってやろう」
 彼の手がツイーに無理やりにそれを握らせた。
「……私が許せないなら私を刺せ。ためらうことはない」
 小刀は細かった。
 女性の護身用だろうか、刀身にまで精緻な装飾が施されている。
 けれど、人ひとりの命を奪うのに十分だろう。
 体中の血がたぎりはじめるのを感じた。
 ツイーはこの男が憎かった。
 煮えたぎる血はラサの王家の血。決してこの男を許すなと、復讐を果たせとツイーを急きたてる。
 彼の体にこれを突き立てたら、この沸き立つ憎悪は嵐が過ぎ去るようにおさまるだろう。その瞬間を求めて、制御の利かない感情が荒れ狂う。喉笛を掻き切られたけものの最後のあがきのように。
 ツイーはきつく目をつぶる。
 両手が震えた。
 殺せば生涯後悔するだろう。
 今までおのれのしてきたこと全てを悔い続けるだろう。
 なぜ六年前に死ななかったのか。なぜ、あのとき彼を殺さなかったのか。なぜこの場所で生きてきたのか。
 なぜ愛したのか。
「……あなたはずるい」
 卑怯なのは自分だとわかっている。それなのに詰らずにはいられなかった。
「あなたはいつもはったりばかり。……私をここに閉じ込めて、皇太后をけしかけて捕えようとしていたのでしょう? あなたは宴を抜け出して、扉の外で機会を窺っていたのでしょう? あの女が間諜だというのだって嘘」
 彼が吐息だけで笑ったのがわかった。
「後宮の誰にだっていい顔をして、愛想を振りまいて……。今だって、むざむざ私に殺されてやるつもりなんてないくせに」
「そうだ。今まで私は、誰彼なく女を可愛がってきたし、母の前でも努めて好い児に振舞ってきた。私の言葉に真実などなかった」
 彼の両手がツイーの手を包み、自分に向けて刃を握らせる。
 きつく、固く。
 嘘はないと訴えるように。
「信じられないなら今殺せ」
 夫も、腹心も、おのが子すら信じられなかった皇太后。
 彼は、その疑いを晴らしたいがために皇帝として務めてきたのだ。
 それでも何も変わらなかった。
 鼻の奥がつんと痛み、ツイーはそっと顔を伏せた。まぶたが段々と熱くなる。唇を噛んだが、嗚咽が歯の間から細く零れた。
 こらえきれずに、目の前の男の胸に顔を押し付けた。
 男の手を振り払って小刀を床に放り投げた。
 彼を抱きしめるのに、手が塞がってしまっていたから。
「グルガン殿に」
 くぐもったツイーの呟きを聞いて、彼が顔を覗きこんできた。
 戸惑いに瞳を揺らすツイーが言葉をつむぐのを、ただじっと待っている。
「グルガン殿に教わりませんでした。こういうとき、……何て……」
 ツイーは僅かに顎を上げ、彼の首に腕を回した。
 彼が背を屈めてそれを受け入れる。
 彼の耳元に顔を寄せ、ツイーは鼻を啜った。
 唇で、冷たく柔らかな耳朶に触れた。
「何て言ったらいいかわからない……」
 ツイーは、彼を拒絶したり、突っぱねたりするための言葉しか知らなかった。彼を愛していると、そう伝えるための言葉を、ツイーは何一つ思いつかなかった。
 彼がツイーの頭を抱いた。
 短くなってしまった髪を撫でつけ、しきりにくちづける。
 その指先から愛おしさが伝わってくるような気がして、ツイーの瞳から涙が零れた。
「惜しい」
「……すぐに伸びます」
「二度と触れることはないだろうと諦めていたが……、触れたら触れたで困ったものだな、手放せなくなる。切られた髪で添え髪でも作らせようか」
「いりません。頭が軽くなって、すっきりしているくらいです」
「可愛くないことを言う」
「このままでもいいかもしれません。身軽だし、洗うのもきっと楽です」
 少し体を離し、挑戦的に彼の顔を見上げる。
 彼はゆっくりツイーに顔を寄せ、唇を重ねてくる。
「おまえは、饒舌な質なのだな」
 知らなかった、と言って再びツイーにくちづける。
 今度は深く、貪るような接吻だった。
「グルガンはいい教師だったな。感謝しなくては」
 ツイーは微かにはにかんだ。
「私の名前は教わったか?」
 ツイーはきょとんと目を瞠る。
 勿体を付けるように小首を傾げて見せ、唇を綻ばせた。
 彼の頭を引き寄せ、頬を両手で包んだ。
 見つめ合っているだけで、互いの血が混ざり合っていくような心地がした。
 口にした瞬間に、胸が熱を帯びた。
 全身に、例えがたいほど甘やかな感覚がひろがっていく。 
 ツイーが彼の名を呼ぶと、彼は優しく微笑んでくれた。
 ツイーが死んで、この肉の体が朽ちたあと、魂は遠く故郷を目指すだろう。
 そして、砂漠の星を手土産に、彼のもとへ帰ってくるのだろう。
 そのときを、この場所で待っていたかった。














(了)



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