オダリスク
12 届かない面影






 空寝は板についたものだった。
 そもそも、彼はあまり深く長く眠ることをしなかった。
 幼い頃からろくに休む時間もなくあちこちをうろうろしていたし、例え寝付いたとしても人が近づいてくればすぐにその気配に目が覚めた。いつ誰の刃にかかるかわからない生活を送っていたからだ。
 後宮でも同じだった。
 どんな女と共寝したあとでも、一睡もしないことのほうが多かった。事後にはかえって頭が冴える質のようだった。後宮に入ればいつも母の側近に後をつけられていたこともあいまって、安心することなどできはしなかった。
 それはもちろん、彼女の部屋にいたときも同じだった。
 むしろ、宮殿のどこにいるよりも気を張っていたかもしれない。いつ彼女が寝首を掻きにやってくるか、半ば楽しみなような気分で、この薔薇の香りのする寝床に横たわっていた。
 腕の中で今、彼女が眠っている。
 彼女と自分は、生まれた場所は大平原の端と端、育ったのも海と山という具合だった。
 あんなことさえなければ、出会うはずもなかったのだ。
 肩ほどの長さで切り揃えた黒髪が、なめらかな頬にかかっている。彼はそっとそれを掬い上げて耳にかけてやる。小づくりの鼻、少女めいた花びらのような唇があらわになる。
 彼には、彼女の部族の女の美醜などわからない。
 そもそも肌の色も目鼻のつくりも、骨格すら違うのだ。
 それでも、彼女のことがとても美しいと思う。
 どうしようもなく愛おしいと思う。
 目を覚まさせぬように、指で彼女の目の下に触れてみる。彼女の肌は磨き上げられた象牙に似ている。今の彼は、似ているのが色ばかりではないと知っている。
 閉じている薄いまぶた。
 その下に隠された黒い瞳。
 これに魅せられていたのだと、今なら認めることができる。
 いつからなのだと、かつて彼女に問われたことがあった。
 彼は答えた。
 はじめから。
 そうでしかありえなかった。
 はじめて彼女を見た、あの朝からだ。





 彼に政を教えたのは母だった。
 誰も信じるな、向けられる言葉が甘ければ甘いほど、耳に心地よければよいほど、相手を疑ってかかるべきだ。
 彼は後宮で、水でも飲むように母のその教えを吸いあげて育った。
 高慢で猜疑心が強く、我儘放題の子供だった。
 しかし、それを彼に面と向かって指摘する者はなかったし、実際にそうであって何ら不都合はなかった。それでも彼には皇帝位への野心など欠片もなかった。皇帝の三男という身分は十分に恵まれていたし、幼い彼は極力面倒くさいことは避け、放埓に怠慢に、自由に生きたかった。どこか田舎の総督でも任され、宮廷とはほどほどの距離を保ち、悠々と暮らしたかった。何よりも宮殿を出て行くことが、母のもとから去ることが肝要だった。
 北に所領を賜った長兄が宮殿を出て行き、数年後に次兄が南の辺境を任された。
 すぐして、長兄が北の隣国との戦争で命を落とした。間もなく、次兄が所領で起こった小さな反乱を鎮めるのに失敗して父の不興を買い、それに絶望したとかで自害した。
 彼が十四になる前に、期せずして、父の後を継ぐ支度は万全に整っていた。
 そして壮健だった父が、実に不思議な時期に病を得て崩じた。
 彼を皇帝に推すという父の遺言を聞きながら、涙ぐむ母を見つめ、ある嫌な思いつきに心を囚われていた。それだけはないと信じたかったが、母の涙のうそ寒さに、思い込むことすらままならなかった。
 位に就いたのは十四になってすぐだった。
 後ろに控える母の微笑みが美しければ美しいほど、自分の手の中に転がり込んできたものの大きさに震え上がった。
 皇帝という位を捨てられないならば、せめていっときでも宮殿から出たかった。どこか見知らぬ土地に行きたかった。よそのものが欲しかった。宮殿の外に出て、思い切り何かを壊し、つくりあげてみたかった。その手始めが彼女の国だった。
 攻めにくい街だった。これまで東西の何人もの皇帝が欲しがり、手を出してきたが、あえなくはね付けられていた。険しい山岳にたった一輪、天に向かって咲き誇る、孤高の花のような都市だった。
 彼にとって、その国は試金石でもあった。思いがけず抱え込むことになった莫大な財産と膨大な軍事力を、自分がうまく扱えるものなのか、それに相応しい器なのか、試したい気持ちがあった。
 果たして彼はラサを攻め取った。
 ラサの王に娘がいると知ったのは、その首が胴体から離れてしまったあとだった。若かった王のさらに幼いだろう一人娘が、女子供とともに城に残っているという。人質に明け渡せという要求は再三拒絶された。こちらから大幅な譲歩を引き出して、最初の降伏勧告から三日後の明け方に王女が投降した。
 彼は寺院で王女を待った。
 王女はまだ乳離れも済んでいないか、育っていても自分より長じていることはあるまい。そう思っていた彼の前に、彼女は現れた。
 王女は、グルガンに導かれ、簾をくぐって彼の前に立った。
 高い窓から朝日が差していた。鋭く、白い光だった。
 赤に近い桃色の不思議な装束、肩口までの黒髪。小さな面はまるで陶器のように白く、鼻はつくりもののように小さく、唇は熟れた苺のように赤かった。
 年齢は、彼とほぼ変わらないように思われた。
 彼女がこちらに進み出た。
 黒い切れ長の目が、ひたと彼に向けられていた。
 恨みも憎しみも痛みもなかった。あるいはその全てがあったのか。
 彼女の唇が微かに震えた。小さな、掠れたような声が零れた。そして、彼女はそれきり口を閉ざした。
「何と言ったんだ?」
 彼女の背後に向かってそう尋ねるが、グルガンは戸惑っているらしく答えなかった。
「何と言った。いきなり斬って捨てたりはしない。呪詛か、人の名か?」
 グルガンは目を伏せ、恐る恐るといったふうに口にした。
「怖れながら、陛下のことを、少年ではないか、とおおせでございます」
 彼は一瞬呆け、そして笑った。
 こんな、女の匂いも乏しい相手に、子供呼ばわりされるとは。
 苛立ちのままに女の腕を掴みながら、グルガンに退出を命じた。グルガンが眉を顰めながら出て行ったのに気づいていたが、もうやめる気にはならなかった。
 彼女は華奢な腕で必死に抗った。それを制しつつ、彼は衣装に手をかけた。見たこともない衣装は脱がせ方もわからなかった。力任せに引き剥げば、布は耳障りな音を立てて簡単に裂けた。その瞬間、彼女は抵抗をやめ、体を強張らせた。
 彼が手を止めて顔を上げると、彼女と視線が交わった。静かな目だった。けれども、手を触れるものを焼き尽くすほどの矜持を秘めていた。
 彼女は、するりと彼の下を抜け出して立ち上がる。何をするつもりかと見上げる彼の前で、崩れた衣装をゆっくりとほどきはじめた。それはこの上なく優雅なしぐさで、老練の踊り子の見せる舞の型のようだった。そのあいだ、彼女は眇めた目を彼から反らさなかった。
 長い布帛を床に落とし、彼女は下着らしい胴着とズボンだけの姿になった。眩しいほど白い腕は、頼りない少女のそれだった。
 彼女は悲しげに目を伏せた。
 彼は我知らず、胴着を脱ぎかける彼女の手を捕えていた。腕を引くと、彼女は力なく床に倒れた。
 その肌に溺れ始めるのに、それほど時間はかからなかった。










 征服した国の王女を後宮に迎えることに、母は異常な関心を示した。
 さらにグルガンが彼女を後見していると知ったときの母の不快そうな顔つきは忘れようがない。
 グルガンの義母はかつて後宮で父の寵愛を受けていた女で、病にかかって声を失い、グルガンの父に下げ渡されていた。彼は母の言動に、母がその経緯に関与していたことを確信した。彼がグルガンを重用するのを母が快く思わず、ことあるごとにグルガンの待遇に口を出してくることも、その疑念を証しているように思えた。
 父は、母の思惑どおりに、声を失くした女に対して冷めたのか。
 それとも、母が自分の愛する女を害することを怖れて手放したのか。
 既に崩じた父の真意は、彼には推し量ることしかできなかった。
 彼が即位したあと、母は尋常でないはりきりぶりで後宮を整えていた。建物のあちこちを改築させ、日々買い入れられる女奴隷を検分し、贈り物として女を献上する臣下に対しても注文を付けていた。
 東方への遠征から帰り着いて、彼女が後宮にやってくるまでには、三ヶ月の猶予があった。
 その間に、グルガンに彼女の様子を尋ねたことがあった。確か、内廷の書斎で彼女の国についての報告を受けたあとのことだったように思う。
「あれはどうしている?」
 彼が問うと、グルガンは首を傾げた。
「あれとは何のことでしょう?」
「だから、あれだ」
 彼は彼女の名前を知らなかった。だから何と呼べばいいのかわからなかった。
「あの女だ」
 彼は唇を尖らせた。
 グルガンははっとしたように背筋を伸ばし、破顔する。
「ああ、ツイーさまですね」
 聞き慣れぬその名前を、彼は口の中で反芻した。
「お健やかにお過ごしでいらっしゃいますよ。今、言葉をお教えしているところです。大変覚えのよい方で、もう片言でお話になりますよ。絵巻物がお好きで、一日に何巻もお部屋にお持ちになります」
 ふん、と彼は鼻を鳴らした。
 言葉を覚えて彼に媚びようというのだろうか。
 故郷の安寧のためを思うなら、彼の機嫌をとっておくに越したことはないのだから。
 その思いつきは、些か不愉快だった。
「猫なら飼い殺しだ」
 彼は吐き捨てた。
 喉を鳴らして擦り寄ってくるような女ならば、いらなかった。
 グルガンが柔らかく笑んだ。
「猫ではないと思います」
「ならば虎の子か?」
 グルガンが曖昧な感じの笑みを浮かべた。 
 彼は、腹心のこういう表情が苦手だった。何を考えているかわからない。
「虎の子ならば、飼いならして、子供ぐらい産ませてもいい」
 その言葉に、グルガンの唇から笑みが失せた。
「どうした?」
 数瞬の沈黙がじれったい。彼はたいてい遠慮なくグルガンを急かすのだが、返ってくる答えは往々にして聞かなければよかったと後悔する類のものだった。
「……申し上げにくいのですが」
「何だ」
「ツイーさまにおかれましては、まだ月役がおいででないと」
 グルガンは言い難そうに目を伏せた。
 彼は面くらっていた。
「ですから、ご懐妊はできかねるものと思います」
 あの朝に彼が組み敷いた、彼女の体は無垢だった。
 子供だったのは、あの女ではないか。彼は不愉快な気分でそうごちた。
 一度見たきりの彼女の顔が思い出された。
 初潮も見ない子供だったくせに、男を知りもしなかったくせに、彼女は彼の前で自ら衣装を解いたのだ。涙一つ零さず、おのれの父を殺して国を滅ぼした男に体を許したのだ。何のための覚悟だったのか。死にたいほどであったろう屈辱に耐えたのはなぜか。考えるまでもないではないか。
 それがおのが為すべきことと、彼女が心していたからだ。
 民のため。故郷のため。誇りを持って生きるため。
 彼はわざとらしく鼻を鳴らした。
 くだらないと、そう言おうとして、口を噤んだ。
 彼はおのれの両手を見下ろした。この手が握っているものの計り知れなさに、はじめて思い至ったのだ。富ばかりではない。力だけではない。それがもたらすあらゆる結果まで、彼の引き受けていかねばならないものだった。
 彼女はそれを知っていた。
 自分は気づいてもいなかった。
 彼は悄然と黙り込んだ。
 それきり、彼女が後宮にやってくるまで、その名を人前で話に上らせることはなかった。
 後宮での最初の晩は同じ部屋で休んだ。しかし、互いに一睡もせず、言葉ひとつ交わさなかった。
 彼女に与えた部屋は、北の隅の薄暗い一角にあった。そうすればよほどのことがない限り顔を合わせずに済むと考えた。
 彼は、彼女を心から締め出そうと努めた。女は後宮のそこかしこにいた。みな従順で可愛らしかった。手当たり次第に手をつけて回った時期もあったし、母の勧める女をいっとき寵愛したこともあった。いつの間にか数人の女が彼の子供を孕み、産み落としていた。
 彼女の部屋へ通い始めたのは、確か二人めの娘が生まれたころだった。
 後宮の女の数が膨れ上がり、その間に序列が形成されて、彼も気づき始めていた。後宮が、母の管理する美しい庭園なのだということに。母が彼女を疎ましがるのは、彼女の存在が母の秩序に悖るからだ。彼がはじめて、母の知らぬところで抱いた女だったからだ。それまでにも、母は気に入らぬ女に容赦なく私刑を下していた。母が手を出せなかったのはただ、彼女が彼にとり有用な存在だということを認めていたからに過ぎない。
 彼は表向きは母に従い、女の身分を重んじた。後宮を訪れる際は、寵妃たちの部屋を満遍なく巡るようになった。その目録の最後に、彼女の名を連ねた。そうでもしなければ、顔を見ることなどかなわなかった。
 寵妃たちの部屋に滞在する間は香時計を使った。誰の部屋にいても、必ず自ら扱った。時間を誤魔化されたり、壊されたりしてはかなわなかった。ただ、彼女の部屋でだけは違っていた。
 彼を閨で休ませている半時のあいだ、彼女は窓辺で歌っていた。
 彼は、あれを彼女の国の寺院で聞いたことがあった。死者を弔うための歌だったのだろう。
 延々と続く陰気で単調な音楽を、何度もやめさせようと思った。彼女の声は、隠しようのない憧憬と、深い哀切とを帯びていた。故郷をいとおしみ、死者を慰めながら、小さなけものの仔のように鳴いていた。耳を傾けているうちにいつの間にか、彼はその歌声に聞き入ってしまっていた。








 あの歌が聞こえなかった日は、だから、ついうとうとと寝入ってしまったのだ。
 思えば、あれより以前から、母は動き始めていた。
 気づいたときには既に遅く、彼女の身に母の手が及んだ後だった。何があったと問いただす彼を、彼女は冷たく突っぱねた。冷静に話し合うために彼女を自室に連れ込んだ。
 それなのに、間近になった彼女の肌に、髪に、あの甘い石鹸の香りに彼は我を忘れた。
 彼女が迷っていたことはわかっていた。拒まれはしなかったことに付け入るように、とどめられない激情に任せ、彼女を腕の中に引きずり込んだ。
 離れがたさに耐え、彼女を置いて寝台を出た。
 すべきことは一つだった。
 全て明かしてやろうかとも思ったが、隠すことができる質だとも思えなかったのでやめた。
 そして、母を信じたいというかけらほどの希望が、彼女を共犯者にすることを許さなかった。もしも母があの部屋に来なければ、来たとしても彼女を害さなければいいと思った。
 果たしてその望みは叶わなかった。
 母は、腹心の女を伴って宴の席から姿を消した。彼は静かにそれを追った。
 踏み込む直前に、彼は母と彼女の遣り取りに耳を欹てた。彼女は決して怯まずに、たいそう小気味良い物言いで母に立ち向かっていた。
 そこで、ようやく彼は認めたのだ。
 彼女は猫でも虎の子でもなかった。母の手がける美しい花でもなかった。彼女はやはり彼女でしかなく、それゆえに自分は彼女を愛したのだと。
 他の女では決して満たされなかったのは、彼女が後宮にただひとり、いや、彼の世界にただひとり、彼と同じものを背負っていたからだ。そして、彼よりも数歩先を歩いていたからだ。六年かけても縮められなかったその隔たりを、漸う崩すことができるのだと、心が震えた。
 








 あのあとすぐに、母は城下の小さな宮殿に移った。腹心も連れ添って出ていった。
 変わったことはあまりなかった。
 彼女は、彼が部屋に通い詰めるのに困惑した様子だった。彼女の小太りの侍女が常ににらみをきかせていることに気づいた彼は、譲歩して、表向きは今までどおりを装った。ただ、ひと晩を過ごす女たちの中に彼女の名を付け加えた。
 彼は一度、子供を産めと冗談交じりに彼女に言った。
 彼女は目を伏せて静かに笑った。
 子供を産んで、おのれが変わるのが恐ろしいと。
 自分は腹の中で、この国に対する、彼に対する憎しみを育てるかもしれないと。
 常になく弱々しく語った彼女を抱き寄せ、彼は二度とその言葉を口にすまいと誓った。
 ハマムに行くほか後宮を出歩かない彼女は気づいていないだろうが、彼は少しずつ後宮の縮小をはかっていた。若く美しい、手をつけていない女から始めて、臣下に払い下げたり故郷に帰したりと、なるべく女たちの望むとおりに後宮を出してやっている。ここに残ると言い張る女には、それなりの仕事と給金とを与えることにした。
 彼女が、こう聞いたことがあるのだと言った。
 女は、最も大切なものを置いていかなければ、後宮を出ることがかなわないのだと。
 グルガンの義母は、母によって歌声を奪われた。
 母からは、彼が彼自身を取り上げた。
 では、彼女は。
 彼女は、後宮に入る前に、十分に失った。
 もはや彼女が、何一つ喪わずにすむように。
 おそらく生涯、彼女を手放してやれない代わりに。
 彼は、腕のなかで眠る女にくちづけた。