深淵 The gulf







 風邪に似た疫病が南方からはびこりはじめたのは、シーネイアが十三の年の初秋だった。
 その病は咳に高熱と頭痛、それから関節の痛みを伴い、患った者をほぼ確実に死に至らしめた。
 大陸かぜと名付けられたその病は、大陸をじわじわと北上して、王都でも流行しはじめた。衛生状態のすぐれない貧民層からはじまって、城下町で猛威をふるい、工人や商人、資産家へと伝わり、ついに宮廷にまでもしのびこんだ。
 ある朝に、早馬がブレンデン邸を訪れた。
 使者の携えた書簡にはこう記されていた。
 アジェ侯爵が大陸かぜを患い、危篤の床にある、と。
 王都から馬で十日の距離にある侯爵領でさえ、その病の恐ろしさは十分に知られていて、聞かされた者はみな戦慄したものだった。
 それから三日後にもたらされた知らせは、誰しもが予想した通りに、侯爵家の代替わりを告げていた。
 シーネイアは、それを直接に使者から聞かされた。何の感慨も抱けぬまま自室へと戻り、椅子にかけたところで、突然に首の下が痛んだ。
 卓に伏せて、シーネイアは目を閉じた。父の顔を思い出そうとつとめたが、難しかったのだ。胸の痛みはますます鋭くなり、シーネイアは苦しさに木の卓に爪をたてた。
 シーネイアは、父とは数えるほどしか顔をあわせたことがない。
 最後に会ったのはシーネイアが十二のときで、会話すらできなかった。
 父のそばにはいつも近寄りがたい面持ちの侯爵夫人がひかえていたし、十二になる前にはもうシーネイアは侯爵家の中での自分の立場というものをほとんど理解していたからだった。
 記憶のなかの父は、むしろ祖父と呼んだほうが近しいような老人だった。シーネイアと同じ色の髪には白髪が混じりはじめ、淀んだ緑色の瞳は深い皺の刻まれた目蓋に半ば隠れていた。
 それでも、シーネイアが幼いときには、彼はよくシーネイアを抱き上げて膝にのせてくれたものだった。
 父は深い声でおっとりと話しかけてくれ、シーネイアは緊張しながらも返事をかえした。
 もっとも鮮やかに記憶に残るのは、父の集めた芸術品が並べられた、客間のことだ。
 父は時折幼いシーネイアの手をひいて、その部屋へ連れていってくれた。
 棚の中に納められた数え切れないほどの壺、彫りもの。
 父は、シーネイアに大きな木箱を開いてみせた。そのときの父は、とても誇らしげな、子供のような目をしていた。
 ごちゃごちゃとした金物が収められたその箱は、ねじを巻かれると高く澄んだ旋律を奏でた。幼いシーネイアは、中に小人の楽団が住んでいるのではないかと真剣に考えたものだった。
 四方の壁には十数枚の絵画が掛けられていたが、シーネイアの気に入りは、暖炉の前の一枚だった。
 薄紅色の衣をまとった春の女神が、陽光のなかを踊っている。その微笑が自分自身に向けられているようだったから、シーネイアは嬉しくてならなかったのだ。
 滅多に客など迎え入れないその部屋には、しかし、美しいものがあたたかく息衝いていた。
 触れあったことが極端に少ないから、よけいにはっきりと思い出せるのだろうか。父と交わした言葉のひとつひとつを、シーネイアは覚えていた。
『次はいつきてくれますか?』
 舌足らずな娘の言葉に、父は笑って答えた。
『いつになるかはわからない』
『次にきたときは、一緒に湖にいきましょう?』
『ああ、そうしよう。お弁当を作ってもらおう』
 その話は結局、果たされないまま立ち消えてしまった。他にもいろいろなことを話した。おみやげを買ってきてもらう約束、都の城に連れていってもらう約束。ひとつだって叶えられたものはなかったけれど、今は不思議と悲しくも悔しくもなかった。  おのれの存在が父にとって侯爵家にとって、どれほどのものでもないということに気づいてしまったせいだろう。
 涙は流れなかった。
 母が亡くなったときもそうだった。五つになったばかりの自分はまだ幼すぎて、死の意味などろくに理解してもいなかった。悲しさなど胸に刻まれるほどには感じなかった。
 痛みはますます強くなる。
 もしもこれが喪失の悲しみだというのなら、泣けない自分はどうすればいいのだろう。

 




 主なき葬儀が行なわれたあと、とうとうアジェ侯爵領にも大陸かぜを患う者が現れた。
 雪の降りしきる厳冬の侯爵領は、その病が広がるには不適な環境だったのだという。秋の温暖な王都では、大陸かぜのためだけに人口のおよそ十分の一が失われたという。
 最初の患者が城下町で見つかったあと、シーネイアは一歩たりとも館の外へは出ぬようにときつく言い渡された。
 それどころか、できる限り自室だけで暮らすようつとめなければならなかった。
 城下へおりた者との直接の対話は禁じられ、食事も常にひとりで摂り、一日のほとんどを裁縫をして過ごすような暮らしが続いた。
 自分のものはもちろん、誰のためかもわからないたくさんの編物が、寝台の上に広がっている。
 毛糸の手袋、襟巻き、上着。
 みなシーネイアが手慰みにつくったものだった。
 毛糸が有り余るほど部屋に運び込まれた。アーニャがずっと相手をしてくれ、どんなに難しいしろものでも編みかたを手解きしてくれた。
 今朝はそのアーニャが来てくれなかったので、今までつくったものを一つ一つ広げて寂しさを紛らわしていたのだ。
 白色の手袋は、毛皮のミトンの下に身に付ければ温かいだろう。
 濃い灰色の上着は室内用で、同じ色の靴下もある。
 襟巻は厩舎の男たちに渡そうと思って、焦茶色の毛糸で六つもつくった。気に入ってもらえるだろうか。
 それから、渡せるかどうかはわからないけれど、黒色の襟巻きはマクシミリアンのために。
 昨日の晩に仕上がったばかりのくすんだピンクの肩掛は、アーニャのために。彼女には内緒でつくったものだから、色選びも模様選びにも、随分苦心した。
 もと御針子の乳母に満足してもらえるように、一針ひと針丹精を凝らしたのだ。
 彼女に手渡ししようと思ってやってくるのを待ち構えていたのに、昼食近い時刻になってもアーニャはやってこなかった。
 シーネイアが寝台の前でぼんやりしていると、居間の扉が軽く叩かれた。
 食事が運ばれてくるには随分早い時刻だ。
「アーニャ?」
 シーネイアは慌てて寝室を出て、扉を開けた。
 しかし、飴色の扉の向こうにいたのは、マクシミリアンだった。
 マクシミリアンとは、父が亡くなってからほとんど顔も合わせていなかった。久しぶりに近くで見る彼は、ずいぶん背が伸びて大人びた目をしていた。
「……どうしたの」
 硬いシーネイアの声に彼は眉をひそめた。
「どうしてあなたが来たの。アーニャは?」
「入れてくれ」
 マクシミリアンの急いた様子に訝しさを感じながらも、シーネイアは彼を居間に導いた。彼がこの部屋に来るのは、じつに四年ぶりのことだった。
 シーネイアが長椅子に掛けると、彼は向かいに立った。ひどく苛立っているように見えた。
「なに?」
「……おまえには絶対に言うなって口止めされたけど、俺は言うからな。聞けよ」
 黒い鋭い目がまっすぐにシーネイアを見つめる。
「昨日の夜、かあさんが倒れた。熱が下がらなくて、医者に見てもらったら、大陸かぜに間違いないって」
 シーネイアは、立ち上がっていた。
「うそ」
「本当だ」
「だって、昨日の夕方、毛糸を持ってきてくれて……」
「嘘じゃない。かあさんがおまえにだけは伝えるなって言った。だから誰も教えなかった」
「今どこにいるの。すぐに行くわ」
「だめだ」
「どうして!」
 浅い呼吸を繰り返し、シーネイアはマクシミリアンに詰め寄った。彼は黙って立ち尽くしている。
「私がアーニャのほんとの子供じゃないから? 侯爵様の娘だから?」
 声は自分でも情けないほどに震えていた。
 昂ぶりのままに、小さな拳をマクシミリアンの胸に幾度もたたきつけた。
 彼の腕は胴の脇で固まっていた。
 マクシミリアンはずっとされるがままだった。
 それがシーネイアの苛立ちを掻き立てた。
「……おとうさまのときもそう。私が正しい血筋の娘じゃないから、最後に会うこともできなかった。卑しい血筋の子供は、悲しんだり泣いたりしてはいけないの? こんなふうに隠れて誰にも会わないで暮らさなければいけないの?」
 一息に言い立てた。
 唇を噛みしめ、マクシミリアンの胸のうえで固めた拳を握り締める。
「アーニャのところに行く。あなたが止めたっていくわ!」
 シーネイアは身を翻した。
 そのとき、右腕をマクシミリアンに掴まれた。
 振り返り、離してと口にするより先に、左の頬に熱い痛みが飛んできた。
 何をされたのか、しばらくは認めることができなかった。
 マクシミリアンの手が、宙に止まっている。彼は苦い表情のままシーネイアを見下ろしていた。
 痛みよりも、ただ打たれたことが信じられなくて、シーネイアはすべての動きを止めた。
「かあさんは」
 彼はゆっくりと手を下ろした。
「かあさんは、おまえがそう言うのをわかってるから、みんなに黙ってろって言ったんだ。大陸かぜは伝染病だ。おまえは何のためにずっとこの部屋に閉じ込められてるんだ。……なんでそんなことがわからないんだ?」
 泣きたいのは自分のほうなのに、なぜマクシミリアンの声が縋るように聞こえるのか。
「母さんは朝に下の病院に運ばれた。おまえだけじゃない。俺だってあまり出入りしちゃいけないって言われてる。今は熱が高いだけで、意識だってあるから、まだ話もできるけど……」
 罰が悪そうにマクシミリアンは目をそらす。
「おまえを連れてってやれないんだ。かあさんが言ったから。俺はまた下に戻るけど、絶対についてくるな。心配するな。医者にかあさんと会えるように頼んでみるから、きっと間に合うから」
 だから待ってろ。
 彼はシーネイアの目をのぞき込み、そう言って、部屋を出ていった。
 足もとがふらついた。背後の長椅子に崩れるように身を預けた。
 打たれた頬が熱く疼いて、痛みをうったえる。
「はやくきて……」
 泣き声で繰り返しながら、シーネイアは天を仰いだ。





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