深淵 The gulf







「おかしくないかしら……」
 おのれのなりを見下ろして、シーネイアはマクシミリアンに尋ねた。
 彼女が身に付けているのは、いつもの華美な絹のドレスではなかった。
 質素な茶色の上着と同じ色のスカートに、白い綿の前掛け。
 みな、アーニャが若い頃にお針子として働いていたときに身に付けていた衣服だった。おそらく二十年近く衣装箪笥の奥深く仕舞い込まれていたのだろうだが、僅かな黴臭さをのぞけば、現在も何ら遜色のない代物だった。
 それを日のもとに引っ張り出してきた本人であるマクシミリアンは、満悦といった表情でシーネイアを見つめている。
 シーネイアに近づいて顔から足下までを丹念に検分してみたり、遠くから眺めてみたり。
 その視線に照れくささを感じてシーネイアは目を伏せてみる。
「全然、おかしくない」
 そう言ってマクシミリアンはうなずいた。
「本当に?」
「食堂の給仕ってところだな。どこからどう見ても、お屋敷のお姫様には見えない。ほんとに、全く、少しも」
 そう言い切られてはかえって侯爵令嬢としての自分を疑ってしまうのだが、やはり、完璧な扮装と誉められると嬉しい。
「あとはその、頭に被ったのが外れないように気をつけてればいい。おまえの髪の毛は目立つから」
 シーネイアは髪をきっちりと結い上げ、その上から白い巾を被っている。生え際まで丁寧に隠せば、髪の色などわかるまい。
 先の侯爵と現在の侯爵は、暗い色合いの金髪と深い緑色の瞳を持っていた。ブレンデン邸から決して外には出てこないという妾腹の姫君が同じ色彩を持っているということも、城下町では有名な話だ。
 今から二人は、その城下町へと下りるのだ。
「じゃあ、行きましょう?」
 すっかり町娘になりきったシーネイアは、同様に質素な衣服に身を包んだマクシミリアンに微笑みかけた。マクシミリアンは、いたずらっぽい笑みでそれに答える。
 アジェ侯爵領は、これまでにない素晴らしくめでたい客に沸いている。
 国王陛下をともなって、若き侯爵がブレンデン邸へ帰ってくるのである。
 国王陛下は、壮健と英邁を知られた偉丈夫だという。白く輝く金髪に冴えた海の色の瞳、男らしい美貌の持ち主で、カメリアと並んだ姿はさぞ美しかろうと評判だ。
 国王の行幸のその実質は、お后選びのため。
 当主ロレンツの妹君であるカメリアは、家柄も年齢も容姿も、何一つ取っても欠点のない素晴らしい姫君だった。
 この行幸が国王陛下のお気に召せば、それだけ侯爵領の主である侯爵、ひいてはその妹君であるカメリアの株もあがるというもの。
 侯爵領の人々は、愛する侯爵家の姫君が国王陛下と並び立つという絵姿を夢見て色めき立っている。
 国王陛下と侯爵一家の馬車が到着する今日は、朝から広場で歓迎の祭りが催される。  反対にブレンデン邸では国王陛下を迎えるために準備に多忙を極めていたから、放っておかれるシーネイアはいつもにまして無聊なときを過ごしていた。
 町に下りてみないかというマクシミリアンの誘いを、シーネイアは初めはとんでもないと笑ったものだった。
 シーネイアの身辺には、以前とは比べものにならないほどの厚い監視がなされていたからだった。
 兄と最後に会ったときからは、早くも二年の時が過ぎていた。
 シーネイアは十六歳、マクシミリアンは十九歳になっていた。
 幼いころからシーネイアに付いていた家庭教師はやめさせられ、新しく四人の教師がやってきた。
 とくに王都の出身という礼儀作法の教師は、言葉も目つきも厳しい老嬢で、目付役として常にシーネイアの側にはりついていた。
 シーネイアは、料理場や馬屋に出入りすることはもちろん、マクシミリアンをはじめとする使用人たちと親しく言葉を交わすことも禁じられた。
 目敏い老嬢は、シーネイアの行くところすること、歩き方しゃべり方にまでも常に目を光らせていた。彼女がシーネイアの影を踏まないのは、シーネイアが眠りにつくときと御手洗に行くときくらいだった。
 けれど、その目を潜り抜けて二人はいつもどこかで会っていたし、かえってそれが若い二人にとっての刺激にもなっていた。
 老嬢はかつてはカメリアの教師をつとめたこともある人物だったので、今はカメリアを迎えるためにシーネイアの側から離れている。
 彼女は嬉々として語ったものだ。
 カメリア様は幼い頃から他の御令嬢とは異なる方で万民に慕われる優しいお心をお持ちでしたとか、国母となられる器をお持ちでしたとわかっておりましたとか。
 うんざりするほどのカメリアへの賛辞は、そのままシーネイアの無邪気な当てつけであって、シーネイアは聞かされているあいだじっと小さくなっていた。
 それを伝え聞いたらしいマクシミリアンは、『どうしてそんな未来のことはわかるのに、目の前の生徒がうんざりしてることもわからないんだろうな?』と笑い飛ばしてくれたけれど。
 マクシミリアンはシーネイアに声をかけた時点で、家庭教師の動きを把握していたし、そのうえシーネイアに着せる衣服の用意までも済ませていたのだった。
 シーネイアはその要領のよさに半ばあきれ、しかし同時に頼もしさを感じて、彼の企みにのったのだった。





 二人は人目を気にしつつ館を抜け出した。
 館から町まで下る一本道で数人の人間とすれ違ったが、マクシミリアンがうまくシーネイアを隠してくれたので、誰にもばれはしなかった。
「けっこうわからないもんなんだよ」
 マクシミリアンは得意気に言った。
 だんだんと道が幅を増し、建物が増えてきた。
 少し離れたところからでも、街の大きさと華やかさがわかる。
「すごいわ」
 街は素晴らしくにぎやかだった。
 通りの店の軒下には侯爵家の紋章と王家の紋章の描かれた旗が下がり、暖簾や紙飾りは目が痛いほどに鮮やかだ。
「いつもこんなに人が多いの? ここにはこんなにたくさん人が住んでるの?」
「毎日こんなだったら堪らないよ。今日は、周りの小さい集落なんかからも人が集まってるんだよ。広場で催し物があるし、誰でも菓子や酒も貰えるし」
「お菓子?」
「食いしん坊」
 マクシミリアンがシーネイアの額を小突いた。
 シーネイアは肩をすくめる。
「あっちだ。行こう」
 マクシミリアンは歩き始め、二人はすぐに大通りに入った。
 隣を歩く者との間隔は肩触れあうほどに狭い。
 まるで人の流れる川の中を進んでいるかのようだった。老人や若い男女や子供、ほんとうにたくさんの人間がいた。
 ちょっとぼんやりしていると、人の群れに巻き込まれてしまう。
 そんなことを考えていると、ふいにシーネイアの視界から、マクシミリアンの黒い頭が消えた。





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