深淵 The gulf
10






 至高の客人を乗せた馬車は、屋根のかわりに花とリボンで飾り立てられ、歩くようにゆっくりと街路をゆく。
 人々があふれんばかりに道に並び、藍色と赤色の旗をはためかせる。藍の旗には白薔薇、赤の旗には金色の獅子が描かれている。それぞれがアジェ侯爵家と国王家の紋である。
 馬車の上からその様子を眺めながら、彼は唇に笑みを貼り付かせている。
 隣に座る貴婦人も同様に、民にたおやかに手を振ってみせる。
 老人も子供も、若者も、目を輝かせて見上げてくる。
 至尊の君と、彼らの愛する姫君との並び立つ姿を。
「グラニスさま、お疲れでは?」
 アジェ侯爵家のひとり娘、カメリアは、茶色の瞳をまるくして彼を見上げる。
「いいえ。あなたこそ、長旅はつらくはありませんでしたか?」
「お気遣いありがとうございます。わたくしは慣れておりますから、平気ですわ」
 カメリアは明るい栗色の巻毛にふくよかな白い顔の、愛嬌のある女性だ。どんな場所でも決してでしゃばらず、控え目な態度を崩さないが、王宮の中では過ぎるほどに聡明だと評判だった。
 年は二十二だったか二十三だったか、その辺りだったのは間違いない。
 貴族の娘としては明らかに嫁きおくれだ。だが、彼女の父と兄が何を意図して彼女をこの年になるまで誰にも嫁がせなかったかは、いまさら言葉にするまでもない。その念願がかなえられんとしているのだから、後ろの馬車に乗る若侯爵も、心の内では随喜していることだろう。
 グラニスは、誰にも気づかれぬよう嘆息する。
 政治の駒に選ばれることの、いったい何が幸福なのか。
 彼は、できれば妻など持ちたくはないと思っているくらいなのだ。
 正直に言って、王妃となる女性は数人の候補のうちの誰でもよかった。
 カメリアでなくてはならない理由はなかった。みな同じような家柄で、健康で、それなりの美貌の持ち主で、簡単に言えば疵のない者たちだった。
 そして、ひとしくグラニスの心を動かさなかった。
 たまたま、久しくなかった各地への行幸が決まったので、もう忍耐の限界だと焦れた近臣に、この歴訪が終わったらいずれかの令嬢と婚約してくれと泣きつかれたのだった。
 おそらくどの家もその事情をわかっていたのだろう、どこへ行っても大変手厚くもてなされた。
 その最後の目的地がアジェ侯爵家だったので、侯爵の力の入れようもわかるというものだった。
 裏表に両家の紋の描かれた旗を用意させているとは、勝利を宣言したも同じではないか。そう思ってグラニスは苦笑したが、カメリアは悠然とした態度で座っている。
「この路は城下を縦断しておりますの。通りすぎるまで、まだしばらくお時間がかかりますわ」
「光栄ですよ。評判の街道をこの目で見ることができて」
「今は、ほとんど人で埋まっておりますけれどね」
 カメリアは赤い唇に柔らかい微笑みをうかべた。グラニスもそれに応えて彼女の顔をのぞきこみ、笑みを深くする。すると、ひときわ大きな歓声があがる。
 恋人どうしの甘やかな会話にでも見えるのだろう。演技のなせる最大の効果を心得ているあたり、やはりカメリアは賢い女性だった。
 カメリアは、再び外に顔を向け、手を振りはじめる。グラニスも、顔の筋がひきつらない程度の和やかな表情を浮かべてみせる。
 美しい町並だ。煉瓦づくりの建物は、それぞれ色を微妙に違えているが、高さは統一されていて見苦しくない。
 それにしても、この人の群れはどこまでつづくのだろう。街路ばかりか、脇の建物の二階や三階の窓から顔を出している者もいる。
 子供たちは、あと少し身を乗り出せばそのまま均衡を崩して下へ落ちてしまいそうだ。
 そのなかに埋もれている、若い女がいた。
 彼女がグラニスの目にとまったのは、誰もが喜びの表情を浮かべて一行を見つめているなかで、彼女がただひとりだけ、静かな瞳でグラニスたちを見下ろしていたからだ。
 給仕か何かの身に付ける白い頭巾をかぶった少女だった。二階の窓際に立っている。
 悲しいのか憤っているのか、それとも一片の感情もないのか、はかりがたい目だった。
 グラニスは視線だけで彼女を追った。
 なぜ、そんな顔をするのだろう。
 なぜ笑わないのだろう。
 きっと、とても愛らしい顔で笑うのだろうに。
 彼女の真下を通りすぎようとしたとき、風が一陣、街路を吹き抜けた。
 砂塵を巻き上げる強い風だった。
 馬が歩みを止め、人々がざわつく。
 彼はとっさに、身を寄せてきたカメリアをまもるように、片腕をまわした。
 だが、顔は彼女に向けたままだった。
 少女はきつく瞳を閉じて肩をすくめる。
 彼女の白い頭巾が外れかけた。
 編み込まれた髪があらわになる。少女はそれに気づかない。
 金色の髪は、色合いは暗いものなのに、とても美しく見えた。
 隣に立っていた青年が、窓枠を越えて落ちてしまいそうになった白い布を拾い上げた。
 彼女は目を開くとそれに気づいて、頭に手をやる。
 さっきまでの暗い顔がまるで嘘だったかのようにあどけない顔で。
 青年は乱れた髪を整えてやり、頭巾を掛けなおそうと首の後ろに手をまわす。
 そのあいだじゅう、少女は目を閉じて任せている。恋人のくちづけを受ける女のような、母親の手で衣服の釦をとめてもらうのを待つ子供のような、淡い期待の笑みを唇にうかべて。
 青年に見せた年相応の表情、許した接触。
 あれが間近なものになったなら、例えば彼女の幼い美貌に浮かんだ憂いを自分が払えたのなら、どれだけ胸があたたかくなるだろうか。
 小さな窓の中の情景が、額縁の中の絵のごとく切り取られて、グラニスの心に焼き付いた。そしてそれは消えなかったのである。





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