深淵 The gulf
27





 日差しは強いが、空気は冷ややかで清々しい。
 午餐のあとに、シーネイアは中庭の隅に腰掛けを運んでもらった。
 午後のお茶までの少しの時間と言う約束で、庭師の仕事を見ているのだった。雪国で生まれ育ったシーネイアには、これくらいの冷えはむしろ心地よいのだが、厚い上着と毛織の肩掛けを着なければだめだと侍女たちが言うので、黙って従った。
 今日は朝から、この宮室の侍女頭にあたるブリシカが不在なので、少しばかり皆の顔つきが違って見えるような気がした。明らかに気楽そうにしている者もあれば、いつもの仕事にも緊張しているような者もいた。
 あれこれと世話を焼いてもらえることが、とてもこそばゆいと思う。
 今までは、何もかもが後ろめたくてしかたなかった。
 自分が大切にされていてはいけないと思っていた。
 その後ろ暗さが、払拭されたとは言いがたい。
 自分が何の地位もない平民の女だということは変わらない。グラニスに宛てた手紙でも、署名には母の姓をつかった。それ以外に自分の所在を示す名がないことは、動かしがたい真実だった。
 異母姉の夫に囲われていることもそうだ。否、事実はさらに悪くなっているのだろう。シーネイアのお腹にはグラニスの子供が居る。あと半年もすれば産まれてくるはずの。
 けれども、ここにいてとても心地よいと思う。
 罪深いことだけれども、国王に会いたいと思う。
 自分は間違っているのだろう。
 シーネイアは、ここにいてはいけない女だ。
 わかっているのに、とても苦しくなる。
 年老いた庭師が、道具を取り出してさっそく仕事をはじめようとしていた。
 シーネイアはふと立ち上がって、薔薇の茂みの中にはいった。いつものことなので、老人はもはや驚きもしない。はじめの数回のうちはひどくぎょっとされたものだった。
「あの、ここの枝なんですけれど」
 昨日の晩に、グラニスが立っていたあたりを探り、千切られた枝を見つけ出す。
「少し千切ってしまったんです。木に悪いことはありませんか?」
 老人が近寄ってきて、シーネイアの摘まんだ枝の先を見下ろす。
「おやまあ、素手で?」
 シーネイアが頷くと、庭師は懸念を笑い飛ばすように大きく口を開けた。
「それくらい何と言うことはございません。もうすぐ葉をぜんぶ落としてしまいますから」
「どうして?」
「害虫よけのためです。枝もだいぶ刈り込みます」
 そう言って、老人は小ぶりの鋏でぱちんと枝を切った。
「……寂しくなりますね」
「少しの間のことですよ。あちらでは冬の剪定はしなかったんで?」
「初雪の降る前には、堆肥を積んで雪除けをしました。時間を置いたあとの牛の糞は少しも臭くないのね。あれは馬ではだめなのかしら」
 庭師の老人は大口を開けて、その曲がった腰に手を当ててしばらく笑っていた。 
「こちらでも剪定の後は堆肥をやりますが、臭いのはいやだなんて仰る方でなくてようございました。心置きなくやれますなあ」
 そうしてやっと、自分が相応しくない言葉を使ったのだと気づいて、シーネイアは首まで真っ赤にした。肩掛けを体に巻きつけて、そそくさと腰掛けに座ってしまう。
 老人は小さな体で庭中を歩いてまわる。
 土を見たり、虫を探したりと忙しいようだったので、シーネイアは声をかけずに見ているだけだった。
 しゃがんでいた老人が、顔を上げて、シーネイアを手招きした。
「なに?」
 シーネイアが近づくと、彼は低いところの枝を示した。シーネイアはドレスが汚れないように裾を手繰って、庭師の横にしゃがみこんだ。
 枝と枝のあいだ、しげみの奥に、小さな白いつぼみがひとつだけ覗いている。
 シーネイアは微笑んで、老人に顔を向けた。
「この花は、返り咲く種なの?」
「いいえ、季節を間違えたんでしょうなあ」
「そういえば、この花は何と言う種なの?」
 老人はよく聞いてくれたとにんまりと笑う。
「今までお尋ねくださいませんでしたからなあ、お教えしませんでしたが、この白薔薇はわたくしの作出いたしました新種でして。実は、これほど増やしたのも今年がはじめてでございます。ですから虫やら病気やらが心配でたまりませんで」
 老人は照れたように、大きな手袋をはめた手で頭を掻いた。
「恥ずかしながら、まだ生まれたての赤ん坊のようなもんです。名前もございません」
 そう、とシーネイアは小さなつぼみを見つめた。
「きれいな花でした。白い花びらが何重も重なって、レース刺繍のようでした」
「そうですとも、花色は純白、月明かりの下では紫にも見えるのです」
 老人言いながらぬっと手を伸ばして、手際よくつぼみを切ってしまった。
「切ってしまっていいんですか? 咲かなくなったりしませんか」
「どちらにせよ、すぐに葉ごと毟ってしまうのですからな。水にでも差して日に当てたほうがいくらか長持ちするでしょう」
 そう言ってその一枝を差し出してくるので、シーネイアはそっと受け取った。
「ありがとうございます。お水に差してきます」
「いいえ、そろそろお部屋にお戻りあそばされませ。侍女殿が怖い顔でこっちを見ておいでなので、爺は心の臓が縮みそうです」
 と、老人は窓の中を見やる。シーネイアは頷いて、お辞儀をして部屋に戻った。





 部屋に入ると、侍女が駆け寄ってきてシーネイアの顔色を見た。
「お寒かったでしょう?」
 シーネイアは小さく首を振る。
「いいえ、大丈夫です。あのね、これを」
 上着と肩掛けを受け取ろうとする彼女に、シーネイアは右の手に握ったつぼみの枝を差し出した。
「お水に生けたいの。花瓶を用意してきてくれますか?」
 侍女は小首を傾げて笑い、かしこまりましたと言って控えの部屋に向かった。
 シーネイアは厚着のまま長椅子に腰掛けて、手の中の一枝を見下ろした。
 頼りない細さの枝に、不似合いなくらい尖った棘。
 先端のつぼみは硬く、まだ緑のかった白色だった。
 ちゃんと咲くことができるだろうか。咲かせることが出来るだろうか。
 枝をそっと撫でてみる。
 指が小さな棘にかかって、ちくりと痛んだ。
「シーネイア」
 呼ばれて、ふと顔をあげた。聞きなれない女の声だった。
 廊下から続く扉のそばに、知らない女性が立っていた。
 栗色の髪、薄桃色のふくよかな顔。
 立ち姿さえ大輪の花のような貴婦人だった。
「お会いするのは初めてね、突然でごめんなさいね」
 そう言って彼女は微笑んだ。
 声なき悲鳴を喉で殺して、シーネイアは立ち上がっていた。
 白薔薇のつぼみが手から転げて床に落ちた。
「妃殿下でいらっしゃいますか……?」
 ようやく搾り出した問いに、彼女は小さく頷く。
 その美しい人は、ゆっくりと歩み寄ってきて、シーネイアの手を握った。
 小さく、ひんやりとした優美な手だった。
「ナターシャにとても似ているのね。まるで生き写し。驚きました」
 歌うように彼女は言った。
「こわがらないで頂戴、大切な話をするために来たの」
 彼女はそう言って、笑みを深める。
 その青い瞳は、哀れみか慈しみにも似た、濡れたような光を湛えている。
 動くことも出来ないシーネイアは、ただ彼女の言葉を待っていることしか出来ない。
「答えて頂戴。あなた、身ごもっているのね?」
 何を訊かれたのか、しばらく理解することができなかった。
 カメリアはただ、真っ直ぐにシーネイアを見つめている。だから、彼女が、知っているのだとわかった。
 知らず知らずのうちに、おのれの腹に手を遣っていた。
「陛下の御子ね?」
 耐えられずに顔を背けた。それで、十分だったのだろう。
 産むなと命じられるのだろうか。それでも、彼女にはその権利がある。
 罵られても、嘲笑われても、自分はそれだけのことをしているのだ。
「怯えなくていいと言ったでしょう。あなたに害をなそうとしているわけではありませんし、仮にそうだとしても」
 彼女は、控えの間に続く扉のほうを見遣る。
「そこで聞き耳立てている忠義者達が許さないでしょう」
 カメリアは優雅に椅子に腰掛けた。シーネイアにも長椅子を促す。
「まずお座りなさい。なるべく楽にね」
 彼女は、広げた扇子の向こうで小さく嘆息した。
「長い話になりそうよ」










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