深淵 The gulf
番外編 ひだまりの白い花






 馬を降りた彼にむかって、幼女が鞠のまろぶように駆けてくる。
 秋の陽光に透ける金髪、真っ青のまるい瞳、母の手製の緑色のドレス。
「おとうさま!」
 鈴の鳴るような軽やかな声音で、幼女は彼を呼ぶ。
 グラニスは馬を従者に任せると、口元が緩むのを自覚しつつ、ゆっくり腰を屈めて彼女を待った。
 けれども、幼女は、グラニスまであと三歩というところで、顔から地面に倒れてしまった。石畳に足を掛けたか、ドレスの裾を踏みつけたか、そんなことは大仰な泣き声の前では考えることすら無意味にちがいない。
 グラニスは駆け寄って幼女を膝にのせ、娘の顔を覗き込んだ。
 白桃のようになめらかで柔らかな頬には、幾筋もの擦り傷が浮いている。今にも血を滲ませそうな傷口を目の当たりにし、グラニスはおろおろと娘をなだめることしかできない。
「大事無いか? 顔のほかにどこぞ痛むか?」
 幼女は、彼の腕の中でぐずぐずとすすり泣くばかりである。小さな両の手で目をこすり、鼻をすする様子がいじましい。
「すぐに手当てをしてもらおう、な、アンナ」
 幼女は泣き止む様子もない。
 困り果てたグラニスの視界に、ひとりの女が入り込む。彼女は幼女がぐずっているのを目にして、慌てた様子で歩み寄ってくる。
「いかがしました?」
 グラニスの胸に埋めた娘の顔を一目見て、シーネイアは苦笑した。
「けがを?」
 彼女はグラニスに、自分が抱くと目で合図し、腕を差し伸べた。幼女は二人の間を実に器用に移動し、当然のように母の胸に抱かれた。白い柔らかそうな手でぎゅっと母のドレスを握りしめ、肩口に小さな顔をすりつけて、それでもまだ小さな嗚咽をこぼしている。
 グラニスはばつが悪いような気持ちになって、口を開いた。
「いま、そこで転んで怪我をした」
「びっくりなさったでしょう」
 シーネイアはゆりかごのようにゆっくり体を揺すってやりながら、グラニスを見上げる。
 グラニスは、次からはこういうふうにあやしてやればいいのだと学習した。
「それはもう。おまえは?」
「いつものことです」
 シーネイアははにかみ、娘を抱いたまま立ち上がり、しっかりとした足取りで館のなかへ向かう。
 娘が生まれてから二年半、赤子のころに比べれば背も伸び、からだの重さも数倍に増した。シーネイアが娘を抱きとめてふらつかないのに、グラニスはときたま感動さえ覚えるのだった。
 彼女が王宮から北の離宮へ移ってからは三年が経つ。
 王太后が隠棲していたころと変わらぬ外観、内装の建物はけれども、まったく佇まいを異なえているのだった。
 グラニスはここを、十日に一度の休暇の日に訪れる。それ以上間を空けることもある。正午から夕餉までをここで過ごして、日が暮れた後に王宮へ帰るのだ。
 しかし、グラニスは、その暗黙の決まりごとをかつて一度だけ破っていた。
 それは、娘が生まれた日。
 まんじりともせず公務を終えたあと、馬を駆ってここにかけつけた。寝台のうえで恥ずかしそうに微笑んでいたシーネイアと、すやすやと眠っていた赤子とを思い出すと、今でも目の奥がじわじわと熱くなるのだった。
 もう二度とあんなことをおのれに許すつもりはないが、ここへ来ればいつまでも帰るのが名残惜しいことだけは、決して変わるまいと、グラニスは思う。
 シーネイアに続いて居間に入ると、そこではブリシカが茶の用意をしていた。ブリシカも幼女のじゃじゃ馬ぶりには慣れたものなのか、驚きもせずに手当ての道具を手配させた。
 シーネイアは長椅子のグラニスの隣に腰掛け、膝の上に娘を乗せている。
 白い手で娘の短い前髪を撫でつけながら、片方の手で背をなだめている。
「アンナ、あんまり泣いているとお父様に笑われますよ」
 シーネイアは娘の頬に薬を塗ってやり、大きな絆創膏を貼り付けた。あの薬はじわじわと痛みをともなって滲みるのだが、娘は泣き喚かずによく堪えていた。
「はい、おしまい」
 娘はしかめつらで母の手当てを受けていたが、シーネイアに額にやさしくくちづけられて、いくらか機嫌を直したようだった。
 幼女は長椅子のうえを這い、おずおずとグラニスの膝に乗ってくる。心地よい重みを感じながら、グラニスは娘を抱きかかえた。
 いつもどおりに行儀よく父親を椅子にした娘の目の前に、ブリシカが皿に乗った焼き菓子を運んでくる。飴色の焼き色のたくさんの菓子は、グラニスの目にはどれも同じようにしか見えなかった。食べても同じ感想しかいえないのだが、娘にとっては種類の違いは大事なのだ。
「どれがいい?」
 尋ねるグラニスを、娘は首をいっぱいに曲げて見上げてくる。
「イチゴのクッキーがいいです」
 それらしい一枚を取ってやると、アンナロッサは「ありがとう、おとうさま」と言って両手で受け取った。食べてしまった後は、小さなグラスをしっかり支えつつ、少しずつ果実水を飲んでいる。
 ついこの間まで母の乳を吸っていたのに、本当に子どもというものはよく育つものだと思う。
「あのね、おやつのあとにね、お散歩に行くの」
「どこに?」
「ないしょ!」
 シーネイアがソーサーにカップを戻しながら微笑んだ。
「おとうさまにお見せしたいものがあるんですって。ね」
「ね!」
 娘は小首を傾げて笑う。
 その表情が、はっとするほどシーネイアに似ているのだった。
 ブリシカは、うまれたてのころのしわくちゃの娘を見て、「陛下の生き写しのよう」と涙ぐんでいた。けれども、髪と目の色こそ父親のそれを継いでいるが、長じて女の子らしくなった娘は、誰の目から見ても母親の雛形にしか見えないだろう。
「それは楽しみだな」
 ブリシカが配膳台の前で笑いをこらえているのを、グラニスは見逃さなかった。
 ぶぜんとした顔でグラニスが茶をすする横で、母娘が睦まじげに内緒話をする。
 秋の高い陽光が差し込む部屋には、しばらく笑い声が絶えなかった。





 アンナロッサは古いことばで『薔薇の娘』を意味する。
 王宮で生まれた新種の白薔薇がその名を頂いて、はやくも二年と半年が過ぎる。
 『薔薇の娘』種は一年に一度だけ、春の盛りに花をつける。
 グラニスが幼女に手を引かれて連れられた庭園で見たのは、ひっそりと花ひらこうとしている、季節を間違えた小さなつぼみだった。




















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