深淵 The gulf
番外編 小夜風










 アトラインがあの晩に憔悴していた理由は、もう一つあった。
 いや、これこそが彼女を打ちのめした真実なのかもしれなかった。
 子爵夫人は身ごもっていたのだ。
 結婚からまだ一年しか経っていないとはいえ、国王夫妻に対する懐妊の期待は大きかった。特にアトラインにかかる外圧は目に見えて増していった。そのころのアトラインは、面と向かってにしろ人伝にしろ、どこへ行ってもお世継ぎはまだかとせかされていた。
 国王はアトラインとしか閨を共にしなくなっていて、その偏愛ぶりも広く知れていた。彼女はすぐにでも身ごもるものと思われていたのである。
 それにもかかわらず、妊娠の兆しは見えなかった。
 あの晩を境に、アトラインはかつての婚約者のことを語らなくなった。
 ブリシカでなければ誰も気づかなかっただろう、本当にささやかな表情の変化ではあった。
「子供が欲しい。できるだけたくさん。にぎやかなほうがいいもの」
 どんなに必死に務めても、跡継ぎを挙げなければ王妃として足りない。アトラインはそう考えていたようだった。そして、辛いばかりだった夜の務めを彼女なりに受け入れようとしていた。
 彼女は王宮で生きていくため、その暮らしを愛するための、小さな光明を見出したのだった。
「赤ちゃんが欲しい」
 それがアトラインの口癖だった。
 そのころ、国王が特に親しくしていたアジェ侯爵に跡取りが生まれた。侯爵邸を祝福に訪問した国王は、金髪に緑色の目の父似の男児を一目で気に入って、その場で名付け親まで買って出たという。
 アトラインの思いとは裏腹に、待ち焦がれたものはなかなか訪れなかった。
 アトラインはまだ若く、月役も決して順調でなかった。月経痛は年々重くなった。床から起き上がれない日も少なくなかった。気紛れな月のめぐりを見ては、落胆する日々が続いた。
 周囲の期待は、やがて失望に色を変えた。国王が娶ったのは産まず女だったと、露骨に非難するものもいた。国王が無理強いに近い形でアトラインと結婚したことにまで遡り、あのとき相応しい結婚をしておれば、と詮無く嘆く者もいた。陰険な噂話はアトラインを苦しめた。
 アトライン付きになって五年目に、ブリシカは女官としての職を辞し、王妃の侍女として私的に雇われた。口さがない連中が何か言っていたような気もするが、ブリシカはそんなものにかまうよりは仕事のために時間を使いたかった。異例の出世で増えた報酬は、惜しまず実家に送金した。
「ブリシカは働きすぎよ。そろそろ一度宿下がりなさい」
 鏡台の前で、アトラインはよく笑いながらブリシカに言った。ブリシカはその助言をありがたく返上した。実家に帰れば、両親に結婚しろとうるさくせっつかれるに決まっていた。
「わたくしがいなければ、誰がこの困った御髪を結いますか」
 アトラインの白金の髪は細く柔らかく癖のない、とても扱いづらい髪だった。その性根を知り尽くし、専門家に劣らぬ技術で触れるのは、誇張でなくブリシカだけだった。
 ブリシカは自分の不器量と女としての可愛げのなさを知っていた。手先の器用さと、王宮での生活で磨いた審美眼だけが自分の誇れるものだった。そして、それを捧げるあるじを既に見つけてしまっていた。
「会えるうちに、孝行をしなくてはだめよ。会いたいと思ったときには、もう遅いかもしれないのだから」
 そのときのブリシカは若すぎて、アトラインの気遣いを理解しようともしなかった。ことあるごとに暇をやると言ったのは、決して里帰りの許されない王妃の立場のゆえだった。
 アトラインとつかず離れずの生活をするブリシカは、毎日のように国王と顔を会わせる機会に恵まれた。
 国王はアトラインを庇い、子供などいつまでも待てる、まだ二人きりが良いと公言して憚らなかった。
 しかし、いっこうに子供のできないことが、妻が自分を許さずに憎み続けていることの証のようにも思えたのだろう。彼は以前にも増して執拗にアトラインを求めた。
 アトラインも、国王の焦燥を肌で感じ取っていたようだった。
 高名な医者が何人も呼び寄せられ、アトラインは彼らの前に肌を晒した。
 確か、腰枕という道具がアトラインの寝室に持ち込まれた日のことだった。医者は、子を孕みやすくするために、事後に尻の下に低い枕を当てるのだと懇切丁寧に説明した。箱の中に仰々しくおさまったそれはベルベット張りで、華美な刺繍がほどこされていた。
 医者が腰枕を置いて帰ったあと、アトラインが冗談交じりに言った。
「間違って頭を載せてしまいそう」
 そのまま卓のうえにでも飾っておけそうな、芸術品めいた代物だった。
「そうでなくとも、蹴飛ばすわね」
「そんなことをしたら台無しです」
「ねえブリシカ、ひょっとして、毎日これを陛下のお部屋に抱えていかなくてはいけないのかしら」
「情緒のかけらもございませんね」
 アトラインとブリシカはしばらく小娘のようにじゃれあった。
 彼女はふと目を伏せて、その大層な道具に指先を触れさせた。
「結婚前の半年、怯えていたのが嘘のようよ」
 黙って聞きながら、ブリシカは、そのあいだのアトラインの心を思った。
 婚前交渉は不名誉だけれども、それは秘しさえすれば当人以外の周囲には知れないことだ。アトラインは誰にも話せなかったのだろう。父母にも、乳母にも、むろん婚約者にも。
 何も知らないまま関係を持たされ、身ごもったかもしれないとただひとり怯えて暮らすのは針のむしろのうえにいるような苦しさだったろう。
「こんなに望んでもできはしないのに……」
 彼女は公務に没頭していった。アトラインが力を注いだのは福祉政策で、ブリシカも彼女について宮廷を出、王都や地方を回った。
 アトラインは一度だけ、故郷近くの南の国境まで視察に出た。そこで両親との面会が果たされたが、強行日程のためにごくごく短時間で切り上げられた。領主である伯爵とも語らう機会に恵まれたが、アトラインは終始落ち着いていた。
 王妃は宮廷の務めから逃げを張ったと思われていた。
 けれど、王宮の外で、アトラインは、生き生きと輝いて見えた。趣味の乗馬も水泳もとうに禁じられていたが、彼女はその代わりに外を歩いたり人と会ったりすることを楽しみにした。孤児院や救護院を訪れ、子供や病人の世話を手ずからすることもあった。動きやすい質素なドレスを着て、かかとの低い靴でそこかしこを歩き回り、汗をかいたり汚れたりもいとわない。アトラインは誰彼なしに話しかけては会話を楽しみ、屈託なく笑った。
 彼女は幸福そうに見えた。
 ブリシカは、それがこれからも続くのだと思っていた。










←back  works  →next