切番500打記念リクエストSS
forノウコ様
ビタレスト・キス




 冬の夜の街を二人で歩く。
 そうはいっても、にぎやかさとは無縁の、彼女のアパートまでの帰り道だ。
 雨が上がったばかりで、空気はいやな匂いがした。
 寒かったけれども、俺と由子は手を繋がなかった。俺はコートのポケットに手を突っ込んだままだ。
 ビニール傘をぶらぶらさせながら、由子はゆっくり歩いていた。由子のさらさらな髪の毛のてっぺんにあるつむじをぼんやりと見下ろしながら、俺は由子と歩幅を合わせる。
 由子はブーツを履いていて、歩きにくそうにしていた。なんで女はこんなものを好んで履くのか、俺にはわからない。可愛いとは思うのだけれど。そういえば、由子がブーツを履きだしたのは、俺と付き合い始めた頃だったと思う。
「……ここまででいいよ」
 由子のアパートの手前には小さい酒屋があって、俺達がバイトを終えてここに来る時間帯にはその店は閉まっている。店の前に並べられている自販機の前で、由子はいつもこう言う。白いたくさんの電灯に照らされて、由子の白い顔がますます白く見えた。
 俺は由子の部屋に一度しか入れてもらったことがない。もう付き合いはじめて三カ月になるはずなのだけれども、俺達が会うのはもっぱら外か、俺のマンションでだ。
 一度だけ入ったといっても、酔ってふらふらになった由子(アルコールにはめっぽう弱い)を見るに見かねて連れて帰ってきただけだ。それが俺達の付き合いはじめたきっかけだった。
 その日はたぶん土曜日で、バイトの後だった。バイト先の何人かと一緒に飲みに行った。あまりそういうことに参加したがらない彼女が、珍しくその日は一緒に来た。
 それから毎日バイト先で会って、話をして、休日には出かけている。それでも、何となく由子は掴めない存在だった。
 なぜなのかはよくわからないけれど、由子はどんどんきれいになっていく。何て言えばいいんだろう。『男好きのする』女になっていく。俺が好きになった頃の由子じゃなくなっていく。だから俺は不安になる。
「なあ」
 ニット帽をかぶった頭を掻いて、俺はそう切り出した。
「別れようか」
 由子は何を言われたのかまるでわかっていないようで、ぼうっと俺の顔を見上げていた。
「なんで?」
 細い声と白い息が、ピンクの口唇から吐き出された。
「……なんで?」
 由子はもう一度そう尋ねた。
 どうしてなのか、一言では言えないような気がした。
 やっぱり可愛いな、と俺は今更ながらに思った。
 別れようなんて言い出さなければ良かったかもしれない。
 俺は黙り込んでしまった。
 由子は、今にも泣き出しそうな顔で俺を見ていた。アイラインとマスカラでくっきりした目もと。そんなことをしなくても、十分きれいなのに。
 俺は由子を真っ直ぐ見ていられなくて、目を反らした。
 俺の視線の先には、酒屋の自販機がある。
 冬のはじめに付き合いはじめて、なんとはなしに由子をここまで送るのが習慣のようになった。おやすみと言って別れる前に、俺は少しでも長く由子といたくて、缶コーヒーを買ってここに座り込んでいた。由子もそれに付き合って、甘そうなミルクティーを一緒にちびちび飲んでいた。
 俺はおもむろに自販機に五百円玉を入れて、ボタンを押した。
 それは俺が好きなブレンドコーヒーでも、由子がいつも飲んでいたミルクティーでもなく、ブラックコーヒーだった。
 がらんごろん、と缶が落ちてくる音が、やけに大きく辺りに響いた。それに、おつりの落ちる高い金属音が続く。
 青色の小さい缶は俺の手に楽に納まる大きさだった。でも、ずっと握っているには熱すぎて、火傷しそうだった。
 俺は早く手離してしまいたくて、由子にそれを突き出した。
 由子はきょとんとした顔で、ブラックコーヒーと俺の顔とを交互に見比べた。
「なに?」
「コーヒー」
「ブラックでしょ。これ」
 由子はちょっと怒ったような顔をしていた。
 手の平がじんじんする。熱い。
 俺は無理矢理、由子の手に缶を握らせた。
「どうするの」
「……由子、俺と付き合って、無理してたよな」
 由子にとっては、俺のせりふは突飛拍子もないだろう。由子は不思議そうな顔をした。
「ブーツ履くし、化粧するし、……ミルクティーなんか飲むし」
 たった一度だけ入った由子の部屋は、六畳二間の珍しくない造りだった。小綺麗に整頓されていて、趣味のいい部屋だった。
 一つだけ俺が気になったのは、台所の隅にごろごろ転がっていたコーヒーの缶だった。全部同じ銘柄の、しかもブラックだった。由子はアルコールが駄目な代わりに、ブラックコーヒーが好きだった。由子がブラックを飲むのは何度か見たことがあるから知っていた。でも、付き合い出してからは、俺の前で飲まなくなった。
 由子がブーツを履く理由も、ミルクティーなんかを飲む理由も、本当は知っている。
 由子に他に付き合っている奴がいるとは考えられない。
 その理由を知っているから、付き合っている奴がいないはずだから。
「俺と付き合ってるから、そういうふうになるんだろ。そんなの俺、嫌なんだよ」
 普通の『可愛い』女でいてほしくなかった。
 由子が由子だから、俺は彼女が好きだった。
 俺と付き合って由子が由子でなくなってしまうなら、俺は彼女と一緒にいることを諦められる。
 缶コーヒーを握ったまま、由子は茫然としていた。
 由子のほっぺたに、涙が伝った。
 由子は自販機の前に座りこんだ。地面は濡れているのに、服が汚れるのもかまわずに。
「……そうだね」
 由子は寂しそうに言った。
「あたし、嫌な思いさせてたんだね」
 目を伏せて、由子は手の中の缶を見つめる。
「ごめんね」
 由子は指で涙を拭いた。
「あたし、きれいになろうと思って、がんばってたんだけどなあ」
 由子は苦笑した。
 由子は小さく俺に手を振った。まるでさよならという台詞を言うことができないかのように。
 俺は頷いて、由子に背中を向けた。
 できるだけ早く立ち去ろうと思うのに、足がひどく重くて、あまり歩けなかった。
 振り返りたいと思うのに、振り返ってはいけないとも思う。
 意気地のない自分を叱咤しながら、由子から離れる。
 後ろのほうで、缶を開ける独特の音がした。
 由子がコーヒーを飲むんだろう。
 ブラックコーヒーを。
 そう思ったら、いてもたってもいられなくて、俺は引き返していた。
 俺は、由子の手からまだ熱いままの缶コーヒーを取り上げて、そこらへんに放り投げた。由子の前にしゃがんで、由子の両脇に手を突いた。
 駆けてきた俺を、由子は濡れた目で見上げた。
「……なに?」
「俺、好きなんだよ。由子が」
 言うと、由子は、マスカラの落ちたパンダたいな目をして笑った。
 由子は両腕を伸ばして、俺の首に腕を回した。
 苦い苦い熱いキスが、俺に降った。





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