血塗の器








 後宮に女は数百ある。王と一夜をともにすることのできる者はそのうちのほんの一握りであり、厚き寵を得て後宮での地位を与えられる者はさらに少ない。ほとんどの女は、美しい肉体をもてあましながら、忘れ去られた温室の花のように、後宮が解放されるか自身が老いるかするのを待つだけである。
 窓際の花瓶の水を毎日替えるように、新しい若い娘たちはたえず後宮に迎え入れられる。とくに今上グレオル二世の御代においては、後宮の規模は歴代の二倍になった。積極的な対外政策と穏便な臣下懐柔の結果として、後宮が膨れ上がったのである。
 賢君と名高い国王陛下は、先王と白人奴隷の間に生まれた子で、琥珀色の肌に黒髪、そして海の底のように深い深い青色の瞳を持つ美丈夫だった。
 しかし、あまたの女たちを意のままにすることを許されていながら、グレオルの心を占めていたのはたった一人の女だったのである。
 十日に一度、グレオルは女のもとを訪れる。
 白い高い壁に囲まれ、幾つもの庭園を囲い、花園とも呼ばれる後宮の作りはごく単純である。外国の王家や貴族出身の妃たちの部屋は後宮の門に近い。平民や奴隷身分の女たちになると、日の当たらない大部屋に何人もが集められて生活をともにする。
 彼女は、後宮の最奥の部屋をいただいていた。いや、彼女の部屋は、妃の住居というよりも牢獄に近かった。宦官がたえず警備する一角は、いつもしんと静まり返り、訪れる者とてない。彼女を迎えるために、もとは大部屋だった部屋を改修し飾り立て、小さな庭園まで備え付けさせたのは、他ならないグレオルである。
 戸のない入り口は、この国特有のものである。木戸の代わりに、上げ下げの容易な布を仕切りとして用いる。砂漠の真中に立てられた白亜の宮殿には、一年中乾燥した風が吹き込んでくる。精緻な刺繍の施された絹布を小姓が上げてしまえば、そこには焦がれてやまぬ女人がたたずんでいるはずであった。
 彼はいつもここでためらう。女に会い、言葉を交わしたい。けれども、会えば女は怯えた目で彼を見つめてくるに違いないのだった。十日に一度の逢瀬は、彼にとって待ちわびていたものであり、同時に苦いものだった。
「陛下、いかがいたしましょうか」
 小姓が遠慮がちに尋ねてくる。グレオルは眉を寄せ、命じた。
「上げよ」
 まず、甘い香が漂ってきた。
 それから、紫を基調とした家具調度が目に入ってくる。女は床にひれ伏して、グレオルの言葉を待っていた。
 複雑な形に結い上げた艶やかな黒髪、おれてしまいそうな細い頸、紅玉の飾られた形良い耳朶。
「顔を上げよ」
 女はゆっくりと身体を起こした。うっすらと少女めいた赤みをおびた頬、薔薇のはなびらのようなくちびる。そして、無粋なほどまっすぐ見上げてくる漆黒の星の瞳。女は、可憐な容貌を憂いで満たしていた。
「ラウラ」
「お待ち申し上げておりました。陛下」
「うん。今宵は、ここでやすむぞ」
「ありがたき幸せにございます」
 ちっともありがたそうではない顔で、ラウラは言う。この女はいつもこうだった。ラウラが後宮に入ってから、すでに一年が経とうとしているというのに。
 女は優雅に立ち上がり、足音をたてずに奥へ向かう。初めて出会ったころのラウラは、裸足で辺りを駆け回る健康そうな少女だった。だが今は、その花のかんばせから憂鬱そうな表情が消えない。それが誰のせいなのか、グレオルは誰よりもよくわかっていた。
「夕餉などよい」
 彼は、先を歩くラウラの袖を掴んだ。彼女は歩を止め、振り返る。
「陛下」
 咎めるような響きの声を無視して、グレオルは隣室に向かう。大きな寝台に女の華奢な身体を倒し、そのうえにのしかかる。ラウラはあらがった。
 彼女の暗い顔を見ると、やみくもに彼女が欲しくなる。この腕のなかでグレオルに翻弄されている間だけは、ラウラはグレオルに憎しみに満ちた視線を向けないからだ。
「陛下、おやめください。陛下」
「なぜやめる?」
「侍女たちが見ています。こんな明るいうちから、慎みのない……」
「私が誰に対して慎まねばならんというのだ」
 グレオルは幾重もの薄い衣を剥ぎ取り、女の裸身をあらわにしてゆく。か弱い抗いなど無意味だった。
 グレオルは本来、嫌がる女に無理強いをするなどという行為を毛嫌いしている。後宮には数え切れないほどの女がいるのだから、ある女に拒まれたのならば、また別の女のところに行けばよいと考えていた。
 しかし、ラウラが彼を拒絶したとき、その代わりになる女はいないのだ。一度火のついた欲望は、弱々しく抵抗するラウラを組み敷き征服することでしか満たされないのだ。
 グレオルは思う。今まで自分が抱いてきたのは、甘い匂いのする柔らかい肉塊でしかなかったのだと。グレオルにとって、女とはラウラひとりのことだった。
 グレオルを憎悪していながら、ラウラは彼に身体を開く。憎い男に抱かれなければならない心地とはどんなものなのだろう。ラウラにそう強いているのはグレオル自身なのに、そんな身勝手なことを考える。
 早く、あの男のことなど忘れてくれればいい。そう願いながら、グレオルは決して彼のことを忘れることはできないだろう。ラウラを抱くたびに、脳裏にあの男の面影がちらつく。
 グレオルは衣を脱ぐのももどかしく、性急にラウラに重なった。象牙色の首筋を吸い、乳房を乱暴に愛撫する。ラウラは声をかみ殺し、眉を寄せて耐えていた。嵐が過ぎ去るのを待つ小舟のように、強い力に揺さぶられていることしか、彼女はできないのだ。
 ラウラが細い声をもらした。こらえきれなくなったらしい。
「陛下……陛下、ああ……」
 すすり泣きのようなあえぎをこぼし、子供のようにいやいやをしている。
「たすけて、イヴェイムさま、たすけて……」
 ラウラがひときわ高い声をあげた。背をしならせて、大きく震える。そのまま気を失ってしまったらしく、ラウラは目を閉じたままだ。
 グレオルは口唇を歪めた。
 イヴェイム。彼女が誰よりも愛した男。そして、彼が殺した男。
 黒い美しい瞳に涙を貯めて、ラウラはグレオルを糾弾した。一年近く前のことだ。
「あなたがイヴェイムさまを殺したのですね。混乱に乗じて、弓兵に命じて、敵の矢をつかって」
 王太子であるグレオルと、その従弟にあたるイヴェイムは、親友であり同時に好敵手でもあった。学問に武芸に、互いにだけは負けられぬと幼い頃から磨きあってきた間柄だった。幾多の戦乱をともに勝ち抜いた戦友でもあった。  彼を手に掛けたのは、狂気にも似た恋ゆえだった。
 ラウラはイヴェイムの美しい許嫁としてグレオルの前に現れた。ラウラはイヴェイムを慕っていた。イヴェイムもまたラウラを愛していた。結ばれるに何の障害もなかった。グレオルも、はじめは二人を祝福した。
 しかし、グレオルは頭を擡げてきた嫉妬に悩まされるようになる。イヴェイムにだけ向けられるラウラの微笑みが、無邪気にラウラを語るイヴェイムが、憎らしくてしかたなかった。
 追いつめられたグレオルは、卑劣な方法でラウラを手に入れることを思いつく。イヴェイムを殺して、嫁ぎ先を失ったラウラの父親にラウラを娶ってやるとそっとささやくだけでよかった。あわれなラウラは喪も明けぬうちに後宮へ入れられた。
 ラウラは、グレオルが親友の許嫁の面倒をみてやるつもりでラウラを後宮に入れたのだと信じていたらしかった。この国で、そういう風習は珍しくもない。社会的に立場の弱い女を守ってゆくための措置として、認められた習慣だった。
 部屋を訪れたグレオルがラウラの身体を求めたとき、ラウラはたいそう驚き、抵抗した。舌を噛んで自害されてはかなわないから、おまえが死ねば父の立場は危うくなると脅しつけさえした。無理やり犯されたあと、やっとラウラはグレオルの真意に気づいた。
 ラウラを手に入れるために、グレオルがラウラの許嫁を殺したのだと。
「なぜイヴェイムさまを殺しておしまいになったのです。私をどうにかしたいなら、私に何とでも申しつければよろしかったのです。こんなからだ、どうにでもすればいい。なぜあの方がお命を奪われなくてはならなかったのですか」
 グレオルは、無二の親友をこの手で殺した罪悪感、おのれに対する嫌悪感、虚無感にさいなまれていた。だが、ラウラの美しい声で罪を咎められると、なぜかグレオルは腹立たしさを感じた。ラウラさえいなければ、グレオルは彼を手にかけることなどなかったのだ。
 ラウラは泣きながらグレオルを責め、拒んだ。抗いをものともせずにグレオルは彼女を何度も抱いた。熱にうかされたような時間が過ぎ去ってやっと、グレオルはおのれの犯した罪の重さを悟った。
 それでも、幾度もラウラのもとを訪れた。ラウラはなにもかもを諦めてしまったかのような顔をしていた。怯えながらグレオルと夜をともにし、寝台から抜け出しては声を殺して泣いている。その姿を愚かしいともあわれとも思う。けれども、グレオルの心を焦がすのは、すでに泉下の人となったイヴェイムに対する嫉妬である。この卑怯で下劣な男は、ラウラの肉体だけではなく、心までも手にしたいのだ。
 ラウラは今、グレオルの腕のなかで眠っている。安らかな寝顔だった。長い睫毛がわずかに動いた。ラウラが目を覚ましたのだった。
「ラウラ」
 彼女はグレオルの姿を認めると、身体を強ばらせた。彼の腕をふり解き、衣を身体に巻き付けて寝台から逃れでる。寝台と少し離れた場所に置かれた卓の上には、酒が準備されていた。ラウラは壺から杯に葡萄酒を注ぐ。蝋燭の柔らかな光に照らされて硝子器が輝き、葡萄酒が血の色に映えた。目を伏せて、ラウラは杯を見つめている。いや、彼女は何も見てはいなかった。その心はどこか遠くにあった。
「明日で、一年が経つのです」
 独言のようにラウラはつぶやいた。
「……イヴェイムさまが亡くなってから、一年が経つのです」
 ラウラはうつむく。
「神の教えによれば、残された者たちが死をいたみ喪に服するのは、季節が一巡りするまでといわれています。それからは、死者は天にのぼり神に御仕えするようになるのだと。だから、死者のことを忘れなければならないと」
 ラウラは微笑んだ。間違いなく、笑ったのだ。
 かつてのラウラは、明朗で利発だった。少女らしい頼りなさを持っていて、年上のイヴェイムに兄のようにつきまとっていた。思えばそれは恋などではなく、肉親の情に近いものだったのではなかろうか。
 グレオルは、してはならない期待を抱いた。ラウラは、神の教えにしたがってイヴェイムのことを忘れ、自分に心を向けてくれるようになるのではないか……?
「ラウラ」
「……それでも、私には忘れることなどできないのです。思えば後宮に入ってから一年の間、私は死んでいるのと同じような暮らしをしていました。私の心は、あの方が亡くなったときに、とうに死んでいたのでしょうね」
 ラウラは杯をあおった。
「私は、陛下への憎しみだけで生かされてきたようなものです。私は陛下に復讐したかった。でも、イヴェイムさまがお命をかけてお守り申し上げた陛下を、弑したてまつることはできません。一年のあいだ悩んでやっと、すばらしい答えにゆきついたのです」
 ラウラは苦しげな息を吐いた。呼吸が浅い。
 様子がおかしい。そう気づいたときには遅かった。ラウラは床にくずおれた。細い身体を抱き止めて、グレオルは彼女の顔を覗きこむ。
「何を飲んだ!」
「あなたは、最も大切な者を失う苦しみを背負いながら、生き続けるのです。私がそうしたよりもずっと長く」
 ラウラの微笑みは美しかった。イヴェイムに向けられていた無邪気で淡い笑みよりも、ずっと凄惨で妖艶だった。ラウラの顔は紙のように白い。
「ラウラ!」
 ラウラは目を閉じた。
「ごきげんよう、陛下」
 子守歌を歌うように、ラウラは言った。二度とその瞼は開かれなかった。
 これが彼女の報復だった。
 愛する命が失われていくのを目の前にしながら、何一つできることがないという無力さ。冷たい死体だけを抱きしめている喪失感。それが、ラウラからの、最初で最後の贈り物だった。
 女はもう喋らない。笑わないし、動かない。ラウラを手に入れたとき、グレオルは、ラウラの憎しみと恨みだけでも欲しいと思っていた。ラウラの愛は初めからイヴェイムだけのものだとわかていた。やさしい言葉も抱擁もいらなかった。いつの間に自分はこれほど欲深に、愚かになってしまったのだろう。ああ、だからラウラは、自分のすべてをグレオルの手の中から取り上げてしまったのだろう。おまえに与えるものなど何一つもないと。無邪気で明るかった少女にそうさせたのはグレオルだった。
 愛していた。彼女の憎しみと同じ強さで愛していた。
 しかし、グレオルは受け入れねばならなかった。なぜならば、彼は、王だったから。命尽きるまで玉座に縛り付けられる生け贄だったから。何百という女を手中にしても、おのれの命一つ好きにすることができないのだ。ましてや、一人の女を支配することなどできるはずがない。
 女は行ってしまった。残酷な至上の微笑みだけを彼に残して。
 葡萄酒の残った硝子の杯が、蝋燭の火に照り映えて、赤くきらめいた。最後にラウラの口唇が触れた、美しい毒の杯。