運命の石 公爵の恋





 それから三月が経った。
 ソランジュには公爵のお呼びがかからないかわり、退去を命じられることもなかった。
 ここ数日、ソランジュは体調が優れないために床についていた。
 ソランジュは医師に見せるほどではないと言う。しかし、あまりに彼女の顔色が悪いので、コンスタンスは執事に頼んでお抱え医師を招こうとした。
 ソランジュがあまりに強く拒むので、ようやくそのわけに思い至り、コンスタンスは血の気が引いた。
 彼女は身籠っていたのだった。
 いつも遅れがちだったので気づかずじまいだったが、最後の月のものからもう三月以上が過ぎていた。
「もうつわりも出るころだというのに、隠していらしたのですね」
 コンスタンスは寝台の傍らで、盥に吐き戻すソランジュの背をなだめながら言った。
 浅い呼吸の合間に、ソランジュが細い声で言う。
「誰にも言わないで」
「何をおっしゃいます。そんなこと、できるはずが……」
「――殺されてしまうわ」
 コンスタンスはぎょっとして、女主人の顔を覗き込む。
 ソランジュは顔をあげ、布巾で口元をぬぐいながら目を閉じる。
「子どもができたら、旦那さまに知られないうちに始末することになっているのでしょう? 生まれても、旦那さまのお心を繋ぎとめる道具にはならないから……」
 誰が決めたと、ソランジュは言わなかったが、それは二人の間の暗黙の了解だからだった。ソランジュの、曇りのない翡翠色の目が、コンスタンスの瞼を焼いた。
 彼女は、父親と自分とのことを思っていたのに違いなかった。
 父伯爵は自分が手をつけた女中が孕んでしまうと、一切の関心を失くし、生まれたソランジュを顧みることもなかったという。
「このお腹の子はわたしなの……」
 ソランジュはうつむき、独言のようにつぶやいた。
「小さいころ、悲しい夢を見て目を覚ましても、慰めてくれる母はもういなくて、寝床で朝までさびしいのを我慢していたの」
 ソランジュは愛人の子として望まれずに生まれ、はやくに母を亡くした。唯一の庇護者だった父が死に、約束されていた結婚も目前にして破れた。
「あの方が婚約を申し込んでくださったとき、一番に思ったのは、あの方と家族になりたい、あの方の子どもを産みたいということだった。そして、自分の子どもにはさびしい思いなんてさせないようにしたいって……。でも、結局は、奥方さまのいらっしゃる方の子どもを身籠ってしまった。母と同じように」
 ソランジュのか細い手が震えていた。
「わたしが生まれなかったほうが、母も、父の家族も、幸せだったかもしれない。あの方を裏切ることもなく、不貞の罪を犯すこともなかった。でも、この子が死んだら、わたしも生きてはいられない……」
 ソランジュはてのひらで顔を覆う。
 消え入るような声で、ソランジュは、産みたい、と言った。
「ソランジュ様」
 コンスタンスはそのか細い肩を抱き締めた。
 慰めにさえならないと知りながら、その髪をなで続けた。




 コンスタンスはソランジュに、公爵に身籠っていることを伝えるよう提案した。それはコンスタンスの本来のあるじである伯爵への背信行為だった。
 ソランジュは心配げな顔をしたが、コンスタンスは大丈夫だとうなずいた。
 医師を呼び確認させた後、ソランジュは、公爵の私室に赴いて、そのことを打ち明けた。
 部屋から出てきたソランジュは、待っていたコンスタンスに微笑みかけた。
「空気のよい、静かなところに別荘があるから、そこで産むといいと言ってくださった」
「他には何も?」
 コンスタンスの問いに、ソランジュは小さく頷く。
「何も。……でも、それでいい。よかった」
 公爵の采配を体のいい厄介払いなのだろうと知りつつ、ソランジュは堕胎せよと言われなかったことをありがたいと思っているようだった。
「本当によかった……」
 ソランジュは繰り返した。その目には涙が光っていた。




 別荘への引っ越しが迫ったある日、コンスタンスは公爵の私室にひそかに呼び出された。
「あれはどうしている」
 公爵は、肘掛椅子にゆったり腰掛けたまま、コンスタンスに問う。
 ソランジュは別荘に移る準備をすすめながら、時折、以前はなかったあどけない笑顔を見せるようになっていた。それは故郷を離れて都に来るための支度をしたときと正反対の様子だったので、公爵には告げにくかった。
「具合でも悪いのか」
「いいえ、そのようなことはありません」
「ではどうした」
「いたって健やかでいらっしゃいます。それから、時折、お腹に触れて、とても優しいお顔をされています」
 短く告げると、公爵は小さくうなずいた。
「私から離れるのが嬉しいのだろう……」
 公爵は背もたれに大きな体躯を預け、深いため息をつく。
 額に手を当て、目を閉じる。
「あの娘を、はじめて見たのは」
 公爵がぽつりと言った。
「伯爵の館の回廊でだった。朝早く、寝巻に上着を羽織っただけの無防備な格好で、手紙を大事そうに抱いていた。恋人からの手紙なのだろうと思った」
 コンスタンスは驚きを隠しながら、始まったばかりの昔話を聞いている。
「遠目にもあまりに幸せそうだったから、思いつきで閨に寄越せと言った。近くでみると思いがけず美しかった。一晩で手放すには惜しくなって、手元に置くことにした。……伯爵はあの娘をだまして私の部屋に差し向けたようだ。抱こうとしたら、許婚がいるから許してくれと泣かれたうえ、私には妻がいると詰られた。初心にも程があると鼻で笑った」
 コンスタンスは、そのときのソランジュの気持ちを思った。
「そのうち飽きると思っていた。いつまでもつれないから、意地の悪い仕打ちもした。でも、手放せなかった」
 公爵は訥々と語り、最後には黙り込んでしまう。
「……あれが、身籠ったと打ち明けてくれたとき、正直言って驚いた。妻との間には子ができなかったし、今まで女を孕ませたこともなかったから。いや、それもわからん、浮気相手の子どもを産むのは貴族の女の恥と思うのが常だから、私には打ち明けずに始末をつけた女もいたのかもしれない。ただ、私は自分の子どもを持つことはないと思っていた」
 公爵夫妻には子供がいない。
 公爵夫人は、結婚当初こそ、姑である王太后にひどく責め立てられ、子どもができないことを思い悩んでいたと言う。しかし今はそのような懊悩を表に出すこともなく、ひっそりと暮らしている。恋人を作ったり、遊興三昧で散財をしたりといった気晴らしをするでもないという。貴婦人の鑑のような女性だった。
 ソランジュは、夫人に対して、誰よりも申し訳ないと思っているようだった。
「あれは、蛇蝎のごとく嫌う私を頼るしかないほど、追いつめられていたんだな。なのに、私の子どもを産みたいと言ってくれた」
 公爵は遠くを見つめたまま静かに言った。
「おまえは、伯爵から、あれが身籠ったら私に知れる前に始末しろとでも命じられていたのではないか? それに背いたのだから、もはや伯爵家には戻れまい。それでもあれについていくのか?」
 コンスタンスは頷いた。
「ソランジュ様がお許しくださいましたので……」
 そうか、と公爵は頷いた。
「今日話したことは、忘れてくれ。あれをよろしく頼む」
 許されて、コンスタンスは部屋を辞去した。
 ひとりの部屋で公爵は何を思うのかと思いをはせた。






 ソランジュの赴く別荘は、海辺にあるためか暖かな気候で過ごしやすく、公爵が冬の間によく滞在する気に入りの場所らしかった。
 周囲の目には、寵の薄れた愛人が体よく厄介払いされたようにうつっただろう。
 出立の日は雪だった。
 公爵は見送りたがっていたようだったが、公務があるとかで登城していた。
 ソランジュは公爵に買い与えられた毛皮の上着をまとい、二年と少しの間暮らした部屋を出た。裏口から車寄せに続く階段を下りかけたとき、それは起こった。
 白い細い人影が、侍従たちの合間を縫って、ソランジュに近づいた。
 そして、その影は体ごと彼女にぶつかり、もろともに階段から転落した。
 夜着姿の公爵夫人だった。
 今まで一度もソランジュの前に姿を見せなかった、その人だった。
 コンスタンスは、もつれる足で転がるように階段を下り、ソランジュに駆け寄った。
「ソランジュ様。ソランジュ様、しっかり!」
 彼女は気を失っていた。
 頭と腰をしたたか石畳に打ち付けたようだった。
「……死んだの?」
 女の声。
 すぐそばで、公爵夫人が幽鬼のように身を起こす。
「生きているの? まあ、その女は良いわ、子供が死ねばそれで」
 ぞっとするような無邪気な声で言うと、高らかに笑い始めた。その顔は青ざめているのに目ばかりがぎらぎらと光って、ソランジュを射殺してしまいそうだった。
 枯れ枝のような女の手がソランジュに伸びる。
 コンスタンスは思わず腕の中のソランジュを強く抱きしめた。
 侍従たちがようやっと我に返ったのか、夫人を取り押さえようとつかみかかった。夫人は甲高い声をあげて暴れていたが、やがて屋敷の中に引きずってゆかれた。また数人はソランジュに駆け寄ってきた。
 コンスタンスが何度呼びかけても、ソランジュの意識は戻らない。
 彼女を抱きかかえた侍従が、ソランジュのドレスの裾に血がにじんでいるのを見つけた。
 すぐに医師がやってきて手当を施したが、甲斐なく、ソランジュの子は失われた。
 公爵は事件のことを知らされてすぐ、ソランジュの眠る寝室に飛び込んできた。
 コンスタンスが、詫びる言葉もなく深く頭を下げると、公爵は寝台にふらふらと近づいて、うなされるソランジュの手を握った。
 大きな体躯の公爵が、細く白い女の手を額にあて、ひざまずく。
 その様は、祈りの姿に似ていた。





 公爵夫人は、はやい時分に、狂っていたのだという。
 ただその誇り高さゆえか、公爵の前では以前と変わらず冷たく美しい貴婦人として振る舞っていた。おかしくなるのは公爵がソランジュの部屋を訪れるときだった。
 夫人はソランジュが別荘に移ることを知り歓喜したが、公爵に近しい侍従に金を握らせてみると、彼女がみごもっていることがわかった。
 喜びから憎悪へ、振り子のように彼女の心は激しく振れて、凶行に至ったのだろうと、屋敷中でひそかに囁かれた。
 夫人は療養の名目で実家に帰され、幽閉されたらしかった。




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