Souvenir

  2 指輪I  

 彼女は、男に何を言われたのか、しばらく理解することができなかった。
 呆けたように自分を見つめる女に、彼は足早に歩み寄ってくる。
 マチアスほどではないが、ずいぶんと背の高い男だった。整った顔だちだが、鋭く光る目とそげた頬とのせいでひどく冷たげに見える。
「話は聞いている。記憶がないそうだな。それに、猟師と結婚したばかりだとか」
 苦々しげに男は言った。
「知ったことではない。おまえは、私と帰るんだ」
 彼女はひるんだが、喉奥から声を絞って言い返す。
「帰るだなんて……、私は、あなたを知らないのに」
 男の手が彼女の肩を乱暴に掴んだ。
 思わず身を引いて逃れようとすると、男は余計に苛立ったようだった。
「知らないなら教えてやる。私はオーギュスト・ド・レンジュー、山向こうのガジェンヌの主で、六年前おまえと結婚した。おまえは二年前、国境そばの館に静養に行く道中、夜盗に襲われて行方知れずになっていた。生きているという手掛かりを得てようやくおまえの居場所を突き止めたから、連れて帰る。それだけだ」
「うそ、結婚していたなんて」
「嘘なものか」
 そう言って、男は自分の左手の薬指から乱暴な仕草で指輪を抜いた。そして、自らの外套の襟に手を突っ込み、首にかかった革ひもを取り出して引きちぎる。その先に下がっていた小さな指輪と自分の指輪をてのひらのにのせ、揃いのつくりと示して見せた。
 そして、彼女の左手を掴み取ると、小さいほうの指輪に指を通させる。
 あつらえたようにぴったりだった。
「うそ……」
 その指には、マチアスの指輪をはめるはずだった。 
 高価なものはいらないと言った彼女に、照れくさそうに、「今は無理でも、いずれ贈りたい」と言ってくれた夫の――。
「おまえの首の後ろ、今は頭巾に隠れているところに、黒子があるだろう」
 彼女は思わず自分の首を押さえる。確かに、自分では見えぬ場所だが、黒子があった。
「では、あのとき、お腹の中にいた子は……」
 彼女がおそるおそる口にすると、男は、怒るように、あるいは泣きかけるように、顔を歪めた。
「生まれる前に死んだそうだな。先ほど司祭に墓を見せてもらった」
 彼女は二年前、身ごもった体で川に流れ着いていた。
 けれど、目が覚めたときにはその子は喪われていた。岩に打ち付けられ、冷たい秋の川水にさらされた母体から、赤子が流れるのを止める手立てはなかったという。
「わかっただろう。行くぞ」
 男は彼女の腕を引きちぎらんばかりの強さで掴んだまま、身廊を進む。
「待って。い、いやです」
「うるさい!」
「あっ」
 引きずられて足をもつれさせ、絨毯のうえに横倒れになってしまう。
 右の足がひどく痛んだ。杖は、オルガンのそばに立てかけたままだった。
 男は扉の前に立ち尽くし、身廊の中ほどに倒れた彼女を冷え冷えとした目で見下ろしていた。
 ふたりはしばらく見つめ合う。
 隙間風が寂しく鳴いて、一刻も二刻も経ったかのようにも思えたころ、ひとつの足音が扉の向こうから近づいてきた。
 扉が開き、鋭い光が差し込んでくる。
 老司祭が入ってきたのだった。
 司祭は、支配者のたたずまいで打ち立つ男、床から半身を起こしたままの女を目にして、全てを理解したようだった。
「伯爵さま、今日は遠目に姿を見るだけでよいとの仰せでしたので、香部屋にご案内いたしましたが」
 その言葉に、彼女は、これが司祭によって仕組まれた再会なのだと知った。
「全て事情はお話ししたつもりです。アナが何も覚えていないことも、夫とむつまじくつつましく暮らしているということも。このお振舞いは、おわかりいただいた上でのことですか」
 司祭は真っ向から男を責めた。男は鼻を鳴らす。 
「ああそうだ。帰らないと言うのなら、その夫とやらを切り捨ててでも行く」
 彼女は戦慄する。
 男は確かに帯刀していた。彼がガジェンヌ伯というのが本当ならば、平民の一人を切り捨てることに何のためらいもなく、また、手を下したとてとがめも受けないだろう。
「もういっときもここに置いてはおけない。ここはあの男の治めるフィナゴだぞ」
「さようです。ここでの狼藉は、いかな伯爵さまと言えども許されませぬ。われらが伯にお話を通したうえでの御来訪とも思えませんから」
「そんなことは後でどうとでもなる。それより、そちこそどうなのだ。たずね人の触書は二年前フィナゴにも出したはず」
 司祭ははじめて耳にしたようだった。けれど、この辺境の村に触れが届かなかったとしても不思議なことではなかった。領主が怠慢ならば、領内に触書など行き渡るはずがない。
 きっとこの男は、それもわかった上で言っているのだと、彼女は思った。
 そうでなければ、対等な立場とはいえ、一領主をあの男、とは呼べない。
「そちも、村役人も、もちろん夫とやらも。身元の分からぬ女のことを領主にあえて知らせなかったならば、不届きとしか言いようがない。更にはそちは、重婚の手引きまでした」
 男は、公然と司祭を追い詰める。
 まるで、彼女に聞かせるためにそうしているかのようだった。
「フィナゴ伯に頼んでそちたちの身柄を引き取り、、我が領内で裁くことは難しくない。罪状は触書の違反、重婚の許可、伯妃誘拐の疑い」
「何ということを……、神がお許しになりませぬ」
 司祭の声は、今にも卒倒してしまいそうに大きく震えていた。
 彼女は、喉元がかっと熱くなるのを感じた。
 思わず立ち上がっていた。
「撤回して」
 よろめきながら男に近づき、彼女は男の腕を掴む。
 顎を上げて男を見据えた。冷えた右足の傷が疼くが、気にもならない。
「触書のことも重婚のことも、あなたにそうとらえられてもしかたのないことです。でも、裁かれねばならないなら私も同じ」
 めまいがするほどの怒りに我を忘れた。
 ただ、これまでの温かな日々を汚されぬために、恐れるまいと思った。
「そして司祭様にも村役人さまにも、夫にも、あなたが最後におっしゃった、口にするのもけがらわしい罪で裁かれる理由はありません。撤回してください、いますぐ」
 男は片眉を上げる。
「おまえの心がけ次第だな」
「今、私がついてゆかねば、司祭さまや夫を陥れるというのですか」
「いかにも」
 男は悪びれもしなかった。
 たとえようのない憎しみが胸から這いあがり、喉元にせまった。
 だが、彼女はそれをかたく呑み込んだ。
「お別れを言うこともできないのですか……?」
「今は。だが、いずれ、許さぬでもない。今日のところは、おまえの恩人には私からじゅうぶんに礼をしておく」
 男は言った。しらじらしい寛容さだと思った。
 彼女は男の肩越しに、司祭を見つめた。
 優しい、心配げな、老人のまなざし。
 彼女は目をつむり、脳裏に夫の顔を思い出した。
 熱い雫が瞳からこぼれかけたが、こらえる。
「司祭さま。私は行きます……」
 司祭は、彼女を止めなかった。
 何も言わず、聖堂に入り、彼女の杖を運んで来て、握らせてくれた。
 マチアスへ、何か言葉を託したかった。
 けれど、謝罪も、感謝も、戻ってくるからという約束すら口にすることができなかった。
 彼女は自分の足で歩いて、馬上の人になった。






 男は馬車でなく、従者ひとりを伴って馬を駆ってきていた。
 彼の馬に一緒に乗せられ、その日の夕方、関所のある町に着いた。出された食事に手をつける気にもならず、かと言って口を聞く気もなく、黙り込んでやり過ごした。
 町の宿では、大きな寝台のある部屋に男といっしょに入れられた。
 男は彼女を寝台に放り込み、自分は長椅子の上で外套をかぶってやすんだ。
 寝床をもらったところで眠れるわけもなく、彼女はキルトにくるまって、男に気取られぬよう声を殺して一晩じゅう泣いた。
 翌日からは馬車が手配され、男と一緒に乗り込むことになった。
 狭い車内で、極力身を離すようにして座る彼女を見ても、男は顔色一つ変えなかった。
 国境を越えたあたりで、男は御者に馬車を止めさせた。
 彼女は馬車から出るよう促された。
 そこは何の変哲もない、細い山道だった。
 男はしばらく歩いて、ぶなの木立に差し掛かると、その向こうを指差した。
 足元を見下ろせば、道が途切れた先は崖だった。
 ひゅうひゅうと、風がうつろに歌いながら、人を追い立てるように吹いていた。
 下は流れのはやい川で、落ちれば、命はないものと思われた。
「おまえの馬車は、二年前、御者の骸と一緒にこの下で見つかった。一人難を逃れた侍女が、夜盗がおまえをここから突き落とすのを見たと話した」
 男は静かに言った。ゆっくりと振り返り、彼女の顔を見据える。
「これでも思い出せないのか」
 その言葉は、ただ悲しげで、彼女には何も答えることができなかった。
「――もういい。戻るぞ」
 男はつぶやくと、もと来た道を引き返しはじめた。
 彼女はその背中を見つめながら、責められ、詰られるよりも苦しいと思った。
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