オダリスク
2 月と駱駝と逃避行








 垢すりを終えたツイーは、女に礼を言って石台を下りた。
 もうもうと湯気のたつハマムの出口をくぐり、預けた衣服を受け取って、狭い脱衣所でそれを広げた。
 茜で染めた短い袖なしの胴着、同じ生地のくるぶしまでのズボン。組で下着だった。それから、花模様を染めた一反の緋色の綿布だけ。
 乾いた胴着とズボンは、手入れの済んだばかりの肌に心地よい。ツイーは次に布帛を取り上げて、腰から背、肩から脚に巻きつける。何の縫製も裁断もないこの大きな布で、帯も使わずに全身を覆っていく。ツイーは最後の余り布を背中で整え、壁に取り付けられた大きな鏡をのぞいた。
 この衣服は、ツイーの故郷の女の平服だった。胴着とズボンは組でチャド、長い布はソリと呼ぶ。暑い夏には薄物のソリで、凍える冬には毛織のソリで、部族の女は装った。身体の前面の襞をどれだけ優雅に均一につくり、かつ動きやすい着付けをするか。それがツイーの故郷の女たちの、生涯にわたる課題だった。
 右肩と首の上の他に肌を出さない、後宮においてはぎょっとするほど露出の少ない格好だ。
 けれども、ツイーにとっては、ここの女たちの格好こそが信じられないのだ。背中や腹だけでは足らず、乳房や脚までもを人の目にさらすなど、ハマムでなければどこででもしたくない。それが皇帝の気を惹くためなのなら、なおのことしたくなかった。
 ツイーは、濡れたままの髪を頭の上で支えながら廊下に出た。後宮のほぼ中央にあるハマムから自室には、中庭と、他の女たちの住む大部屋とを通って帰らなくてはならなかった。
 早く部屋に戻って、侍女のグエンの顔が見たい。グエンは、故郷からツイーとたったふたりで後宮に来てくれた、もう四十になるふくよかな女だった。ツイーのソリは、故郷から持ち出したもののほかはすべてグエンの手製のものだった。
 後宮は、宮殿の北、皇帝の居住区である内廷のさらに奥にある。
 建物としては開放的で、どこもかしこも白く塗られた壁もあいまって、昼間はいつも過ぎるほどに明るい。
 けれども、その入り口はひとつだけ。
 自由に出入りすることができるのは、主である皇帝ただひとりだけだ。
 忌々しい男の顔を思い出し、ツイーはますます歩みを速めた。
 ハマムに入ったのはまだ日の高い刻限だったが、すっかり時間を忘れてしまっていたようだ。日はすでに傾き始めていて、陽光に白い壁が薄赤色に染められている。
 後宮の夜はとても早く、長い。
 そして、その夜の闇は深い。
 渡り廊下に入ったツイーは、中庭に女が集まっているのに気がついた。広げられた敷物と、その上に並んだ光りもの。出入りの行商がものを売っているのだろう。ツイーは立ち去ろうと急いだ。
「ソリのお嬢さん、ご覧になっておいでなさい!」
 ツイーは思わず足を止めた。
 目をやった先に、小さな老婆が座っていた。商品に群がる女たちの隙間から、老婆はツイーに手招きをした。
 ツイーは一瞬だけ逡巡して、ゆっくりと老婆に近づいた。裸足で踏みしめる芝生が、足裏に冷たくくすぐったかった。
 ツイーが敷物のそばに屈みこむと、老婆は皺だらけの顔で大口をあけて笑った。
「本物かい? 着ている女を見たのは久しぶりだ」
 老婆は、腕輪をいくつも重ねた枯れ木のような手で、ツイーのソリの袖口に触れた。重なった裾を確かめて、老婆は少し目を丸くする。
「本当に、本物だ。見たのは一度きりだったけどね、ようく覚えてる。なんて不思議な着物だろ」
「ソリを見たのはどこで?」
「もう何十年も前だよ。砂漠のずっと東で商いをしていたころさ」
「そう……」
 まだ、故郷が平和だったころ。そのころの平穏は、あの美しい土地とおおらかな人々から、失われてしまったのだ。いや、失われたのではなく、奪い去られたのだ。
 戦火に焼かれた故郷の街から、幾晩もかけて砂漠を越えて、ツイーはこの国にやってきた。見上げた月は赤く、乗せられた大きな不思議ないきものはけものくさいうえにひどく揺れた。幼かったツイーは、深く沈んだ心を故郷の空に馳せた。
「それにしても」
 老婆の目つきが鋭くなる。
「この生地、古いけれども上等だね。赤が少しも褪せちゃいない。あんた、ほんとに奴隷なのかい?」
 探るような老婆のしわがれ声に、ツイーは僅かに眉を顰めた。
 それに気づいた老婆は、咳払いをして手をひっこめた。
「ああ、詮索はごはっとだね。悪かったよ。そうだ、お嬢さんにいいものがある」 
 老婆は、ここまで背負ってきたらしい大きな荷物を探っている。取り出したのは数本の反物だった。老婆はそれを敷物のうえにごろりと広げた。すべて綿織物だった。
「少し尺は変わるかもしれないけども、どうだい。ソリにできないかい?」
 ツイーは一本を持ち上げて、膝の上に広げてみた。濃い藍色に幾何学模様が染め抜かれている。薄手だが、織りの目は細かく、決して粗悪な品ではなかった。常夏のこの国でも、きっと涼しく着られるだろう。
 他の布地も、少しソリに着るには柄の大きなものばかりだった。けれども、真新しい布地には心引かれるものがあり、ツイーはしばらく布地をためつすがめつ検分した。そのあいだ、老婆は他の女たちの相手をしていた。
「どうだね、気に入ったかね」
 戻ってきた老婆に、ツイーははじめの藍色の布地と、真緑色の布地を見せた。緑色のほうはグエンにどうかと思ったのだ。
 ところが、ツイーは老婆に交換に渡せるものを持っていなかった。
「おばあさん、私、今お代を持たないの。すぐに何か持ってくるから、それまで待っていてくれる?」
「その赤いソリでかまわないが」
 きょとんとしたツイーに、肩を竦めて老婆は言った。
「……いや、やめておこうかね。そのソリ一枚で、私の身ぐるみ剥がれても文句は言えないんだから。ちゃあんとこれはとっておいてあげるさ、早く戻っておいでなよ」
 ツイーは頷いて立ち上がった。
 そのとき、渡り廊下の奥から、きゃあっと女の悲鳴が聞こえた。ツイーがやってきた方向だった。誰もがいっせいにそちらを向いた。女たちが次々と平伏するのが見えた。
 誰がやってきたのか、考えるまでもない。
 中庭で騒いでいた女たちは一斉に静まり返り、老婆でさえその場に伏せった。ツイーは唇を噛みながら、腰を下ろして芝生のうえに額づいた。やはり、あのときさっさとここを立ち去っていくべきだった。
 軽い足音をたてて、男が歩いてくる。
 後宮に足を踏み入れることを許される、たったひとりの男が。
 ツイーは伏せた顔を思い切り歪めた。
「大勢に出迎られて何事かと思えば、なんだ、行商がおったのか」
 若く、張りのある美声だった。
 鷹揚な、けれども歌うような滑らかな語り。
「みな、楽しみを邪魔してすまなかった。おもてを上げてくれ。ご老人も、さあ」
 声をかけられた老婆は、恐縮しきってしまったのか、なかなか動こうとしなかった。女たちは次々と顔を上げ、熱っぽいまなざしを皇帝に送っている。
 ツイーも、膝をついたまま身を起こし、皇帝を見上げた。
 皇帝は、黒檀のような黒髪に、なめした革のような浅黒い肌の持ち主だった。若い雄馬を思わせるしなやかな体躯に、あどけなさの残る甘い顔立ちは少し不釣合いで、それがたまらないのだという女もいる。
 齢は二十、即位してからははや六年。
 そして、既に二人の息子と三人の娘の父親だった。
 皇帝は、妻は公平に愛する、という理想を若い時分から実践している。そう頻繁に訪れこそしないものの、来ると決めた日は早くから後宮に入り、妃たちの部屋を順繰りに回る。夜も深まってから最後にどこかの女の部屋に落ち着いて、朝までを過ごしていく。それも長くひとところに定まった試しはなかった。
 それゆえ、新しく皇帝の寵愛を受ける女というのはめったに増えることはなく、身分の低い大部屋住みの女はほとんど皇帝に会う機会に恵まれないのだった。 
 皇帝は、小さくなってしまった老婆の向かいにしゃがみこんだ。
「ご老人、ここの者たちには、外からの風が何よりの気晴らしだ。私もとてもありがたく思う」
 そう言って、皇帝は目を細めた。
「そうだ、みな、いつも退屈な思いばかりさせている詫びだ。好きなものを選ぶがいい、私の払いにしてやろう」
 老婆は呻いて、耐え難いとでも言うかのように平伏した。
「恐れ多うございます、皇帝のお目に適う品ではございません」
「そうでもないぞ」
 と言って、皇帝は老婆の膝の横に転がる反物を拾い上げた。ツイーが気に入った、幾何学模様を染めた藍色の綿だった。
「ほら、この布帛なぞ、ものもいいし異国風の模様が面白い。この耳飾は硝子だろうか? こう澄んだ硝子は、技がなければつくれないな」
 実に楽しそうに、皇帝は老婆の商品をあれこれ検分した。そして、いいことを思いついたとでも言うように、黒曜石の瞳を輝かせた。
「そうだ、ここにいない者が可哀想だな。ご老人、差し支えなければ、今あるものを私に譲ってはくれないか。もちろん言い値でかまわないし、城下での便宜もはかろう。どうか?」
 老婆は叩頭したまま、くぐもった声で、恐れ多うございます、と繰り返した。
 ツイーは、皇帝の膝上に広げられた反物から目を反らす。
 女たちに取り囲まれて、皇帝は微笑みながらその相手している。まるで少年のように無邪気な表情だった。
 ツイーは再び唇を噛み、彼らから目を背けた。
 夕闇に紛れ、ツイーはそっとその場を離れた。
 赤く翻るソリを、皇帝が目で追っているのには気づかなかった。




←back    works    →next