オダリスク
3 夜を流れていく音楽








 部屋に戻ったツイーを、グエンは笑顔で迎えてくれた。
「ごめんなさい、遅くなってしまって」
「お待ちしておりましたよ、さ、御髪を乾かしましょうね」
 ツイーと彼女の会話は、この六年間もっぱら故郷の言葉で行われていた。彼女はこの国の言葉を喋れないからだ。喋らないというよりは、覚える必要がないと考えているといったほうが正しかった。グエンはどんなに不便でも頑固に故郷の言葉を話し続けている。
 けれども、少し愚痴っぽいところを除けば、心遣いの細やかな、本当に善い女だった。
 ツイーは彼女のほかに側近くに人を置こうとは思わなかった。
 ツイーの与えられた部屋は、後宮の北のはしにある。
 寵妃の居住区のなかでも最も奥に位置していて、用がなければ誰も近寄ろうともしない薄暗い一角だった。ほどほどの広さの居室と狭い寝室の二間続きで、どちらの部屋にも窓があり、塀に囲われた小さな庭に面している。
 ツイーは窓辺に腰を下ろした。その後ろにグエンが座る。
 こうして髪をグエンに整えてもらうのが、ツイーの日課だった。夜のあいだに乾かして簡単にまとめ、朝に目覚めたあとにきれいに結いなおしてもらう。
「ハマムから寄り道なさいましたね。生乾きです」
 とがめるようにグエンが言った。
「そう、中庭にね、行商のおばあさんがいて」
 さらさらと心地よい手触りだった、美しい反物。異国の装飾品。
 心騒がないはずがない。ツイーだって、若い女なのだから。
「ソリを見たことがあったんですって。私、ソリのお嬢さんって呼び止められたのよ。見たのは何十年か昔だと言っていたけれど、ソリのことをとても褒めてたわ」
「当然です」
「これのこともね」
 ツイーは、おのれの赤いソリの裾を持ち上げてみる。
「古いけど、とてもいい布地だって。いい色だって」
「当たり前です。お母さまの形見ですものね」
 ツイーは笑って目を閉じた。グエンの手指はふくよかであたたかく、触れられていると、とても心が安らいだ。
 ツイーの母は、ツイーがほんの小さなころに亡くなっていた。母の侍女だったグエンがツイーの母代となってから、もう十五年以上が経つ。ツイーが故郷からこの後宮に来るときも、まるで自然なことのようにツイーについてきてくれた。
「こちらの綿は、糸が太くて色も野暮ったくて、私はあまり好きませんよ。しかたがないから使いますけれどね、本当ならあんなもの絶対にツイーさまに着せたりしませんよ」
「そう、おばあさんがね、しまっていた反物を見せてくれたのよ。不思議な模様で、生地も柔らかくって気持ちよさそうで、きっとグエンも気に入ったと思う」
 審美眼の磨きぬかれたグエンでも、あの反物をきっととても喜んでくれただろう。ツイーは細くため息を吐き、肩を落とした。
「今日、皇帝が来るわ。いつになるかわからないけど」
「どうしてご存知なんです?」
「中庭で、ちょうど行きあってしまったの」
 ツイーはしなだれるように窓枠に寄りかかる。
 誰も彼もに振りまかれる、皇帝の耳障りのよい言葉、甘い笑み。母親であり、後宮の管理人である皇太后の意に従って、彼は妻は平等に愛するのだといって憚らない。
 だが、実際にそんなことができるわけもない。
 相手は家畜ではないのだ。心を、矜持を備えた女なのだ。
 皇帝の目配せひとつ、しぐさ一つでその愛をはかり、比べあう。
 女たちは皇帝が死ぬか自分が死ぬか、あるいは臣下に下げ渡されるときにしか後宮を出ることができない。だから、皇帝の愛情は、女たちがより豊かに、より心安く生きるための、唯一の手がかりなのだ。
 グエンは、黙々とツイーの髪を整えた。
 肩口でひとまとめにして絹糸で括り、最後に手触りを確かめるようにひと撫でする。
「じゃあ、お食事にしましょう。準備にいってまいります」
 そう言ってグエンは立ち上がって、部屋を出て行ってしまった。
 ひとり残されたツイーは、ぼんやりと窓の外を見上げた。
 ツイーは、冷たい石の窓枠にぴたりと頬をつけた。
 皇帝など来なければいい。そうすれば、ツイーは後宮の最奥に捨て置かれたまま、平穏な暮らしを送ることができるのに。
 目を閉じたツイーは、静寂のなかに足音が響くのを聞いた。
 遠くから、誰かが廊下を渡ってくる。
 グエンではなかった。彼女は足音を立てずに歩くからだ。
 ツイーは身を起こして、上体を部屋の入り口に向けた。
 乱暴に仕切り布を払って現れたのは、若い皇帝そのひとだった。
 彼は、形よい唇を不機嫌そうに曲げて、醒めた目でツイーを見下ろしている。その表情に、よその女に向けられる甘さを見つけるのは難しい。見事な変わりようだった。
 ツイーは平伏し、すぐに顔を上げた。
 本当は人の目のない場所でひれ伏す必要はなかったが、これも後宮の女の義務の一つなので怠るつもりはなかった。
 この男が、ツイーの部屋をいやいや訪れているように。
「ようこそおいでくださいました」
 冷たい声でそう言ってやると、皇帝は片眉を吊り上げた。
 ずかずかと部屋に入ってくると、中央の敷物のうえに腰を下ろす。
 ふたりのあいだには、三歩ほどの隔たりがある。
 決して互いに侵すことのない、いわば見えない岩壁のようなものだった。
 皇帝は憮然とした顔で言った。
「さきほど、中庭にいたな」
 ツイーも抑揚のない声で返す。
「おりました」
「あの行商から、何ぞ購ったのか?」
「いいえ」
 短く答えて、ツイーは目を伏した。
 あの反物は手に入らなかった。だが、そんなことをこの男に伝えるつもりも、必要もない。ねだるなどもってのほかだ。
「いつもの侍女はどうした」
 彼は視線だけで部屋を見回した。
「食事の準備に出ています。何か召し上がりますか」
 一応の決まり文句を口にするのは、それが義務だからだ。一度だって是の答えが返ってきたことはないし、返ってきてもどうすればいいのかわからない。
「いらん、よそでたらふく食わされた」
 皇帝は、ここに来るまでにも何人かの女の部屋を回ってきたのだろう。あちこちでものを勧められ、次々と酒や料理を口にし、腹が一杯になったころあいに、皇帝はツイーの部屋にやってくる。
「腹が膨れて動けない。寝る」
 無愛想にそう言う皇帝を、ツイーは隣の寝室へ案内した。
 狭い寝室に、ひと二人の横たわれる褥は不釣合いに大きかった。
 ツイーの褥は、グエンが絹の敷布に薔薇の香油を焚きこめて、いつも完璧に整えてくれている。
 けれども、皇帝はツイーと床を共にしようとはしなかった。ツイーが後宮に入ってから、ただの一度も。
「半時したら起こせ」
 皇帝は、ツイーのそばを横切るとき、懐を探って右腕を突き出してきた。手のなかのものは、細長い銀細工の箱。
 ツイーは両手を差し出した。
 男の骨ばった大きな手。節高い長い指。
 一瞬だけ触れた指はひどく冷たく、乾いていた。
 黙ってそれを受け取り、ツイーは燭台の明かりを吹き消す。
 それでも、窓から注ぐ月明かりに、部屋はまだ明るかった。
 褥のなかを振り返らずに、ツイーはそっと寝室を出た。
 渡されたものを握ったまま、居室の窓辺にうずくまる。
 長さはてのひらほど、幅は指二本ぶんほどの銀細工の箱。最下部には薄い抽斗がついていて、そのなかには線香が入っている。香炉なのだ。
 蝶番で取り付けられた蓋には、均等に小さな孔が三つ並ぶ。蓋を開けると内部が三部屋に隔てられていて、仕切り板の中央には細い溝が彫られていた。
 火のついた線香を溝にはめ込み、蓋を閉じる。すると、端の孔から細く煙がもれてくる。
 煙の出る孔が一つ移るまでが一時の六分の一。
 線香が燃えつきるまでに、その三倍の半時かかる。
 一度使い方を説明されてからは、訪問のたびに預けられていた。今では、使った後の灰の始末まで手馴れたものだった。
 香時計といって、皇帝が東国の使者からの贈り物を気に入って、自分のために作らせたのだという。ツイーは、ハマムで寵妃の侍女たちがそう話しているのをたまたま耳にしたことがあった。皇帝は、どこの寵妃の部屋でもこの香炉で時間を計り、それを守って滞在するというのだから徹底している。
 ツイーは部屋の蝋燭から火をとり、線香をなかに納めて蓋を閉じた。煙が流れ出てきたのを確認し、そっと窓辺に置いた。
 粉っぽい白檀の香りを吸い込み、ツイーは唇を開く。
 この香りは、故郷の寺院を思い出させる。
 涼しく暗かった霊妙な空間に、人々の歌声が木霊するように響いていた。
 その歌は、ひとつの旋律の曲に、慶事のときには朝の詞、弔事のときには夜の詞をつけて歌う。詞はそれぞれ十六節と長く、各節が頭韻と脚韻を踏んでいる。
 故郷では、どんな子供でも五つになるまでにはひとりで歌えるようになっていた。生まれたときから、寺院で繰り返し繰り返し聞くからだ。
 本来は集団で読誦する歌だ。
 けれど、ツイーはたったひとりで歌う。
 弔いのために。
 夜の十六節を歌い終えたとき、香はちょうど燃えきっている。






 ツイーが皇帝を送り出したあと、重たげな包みが部屋に届けられた。 
 ツイーは、その美しい二本の反物を、まとめて褥の奥に仕舞いこんだ。
 物売りの老婆から預かったものだと伝えられたけれども、ツイーはうすうす、これが本当は誰によって寄越されたものなのか感じ取っていた。
 乗り上げた敷布のうえに、わずかに男の温もりが残されていた。
 ツイーは顔をしかめて褥から飛びのいた。
 おそるおそる手を伸ばすと、皺の寄った敷布が、僅かな体温を伝えてきた。
 そんなことをした自分が小癪に障り、慌てて腕を引っ込めた。



←back    works    →next