オダリスク
6 庭でのロマンス








 その日も、ツイーは明け方に目を覚ました。
 ふだんは、グエンが朝食の準備をしてくれるまで部屋でゆったり過ごすのだが、この月に限っては、早朝にハマムに向かうことにしている。
 ちかごろ、ハマムは昼中とみに混んでいた。
 あの広い浴場は、子供のある寵妃から、大部屋に住む下働きの少女たちまで、区別なく女たちでごった返す。それこそほとんど一日中をハマムで過ごす女もいるのかもしれない。
 この月の二十日に、皇太后が皇帝の誕生日を祝う宴を催すためだった。
 皇太后は後宮の北西に自室を有していて、そこには彼女のための小さな湯殿がある。だから、皇太后は共用のハマムを訪れることなどない。しかし、毎年のこの時期にだけ、皇太后は足しげくハマムを訪れるようになる。
 誰を宴に呼ぶのか決めるため、ツイーの知る限りの昔から続いている行事だった。
 女たちの顔ぶれは、毎年変わった。
 皇帝にまだ子がなかった頃は、お手つきを中心に、皇太后の選んだ容色の優れた女たちが出席していた。
 次々と寵妃たちが子供をなすと、子供のある女たちが最も重んじられるようになった。それに子供のない寵妃を加えると相当な数になる。宴の規模は毎年大きくなるいっぽうだが、皇太后はそれでもまだ足らないというかのように、女たちをハマムで品定めし、自ら衣装や装飾品を整えて、美しく装わせ、皇帝の側に侍らせる。
 皇帝はふだん、あまり新入りの女を閨に呼ぶことはない。けれども、この宴の日に限っては『母の誕生日の贈り物』の中からその夜の相手を選ぶのだ。皇子を産んだ二人の寵妃も、何年か前の誕生日に贈られた女だった。いっぽう、選ばれなかった女はそのまま皇太后の元に残って彼女に仕えたり、元の場所に戻ったりとさまざまなのだと聞く。
 ツイーは、皇帝に子供が生まれるまでは、寵妃の第一席に据えられていた。席次は子供が増えるにつれて下がったが、それでもツイーは寵妃の中では上席を与えられてきた。
 その意図がどこにあるのか、ツイーは後宮に入った日に身をもって知った。
 だから、皇太后と顔を合わせないためにも、人の少ない朝方にハマムに出かけることにしていた。人が多い場所では気疲れするし、ゆっくり肌を磨いてもらうこともできない。
 ツイーは、桶のなかに洗面道具をまとめはじめる。
 ツイーの洗面道具は、後宮に入る前に、グルガンの母が整えてくれたとても大切なものだった。櫛は、ツイーの細いまっすぐな髪に合わせて、目の細かい歯の丈夫なものが選ばれた。薔薇水や乳酪などは、彼女が吟味した品が定期的に届けられている。
 中でも欠かせないのは、石鹸だった。
 グルガンの母は、後宮にいたころから石鹸にこだわりぬき、自分で材料を集めては大量の石鹸を作り置きしていたのだという。
 金色の箱におさまったツイーの石鹸も、もちろん彼女の手製だった。
 見せられたたくさんの種類のなかからツイーが選んだのは、植物の油に蜂蜜と乳を混ぜて作ったものだった。きつすぎない香りとやさしい色合いが気に入って、そればかり使うようになった。同じものを彼女が長く愛用しているのだと聞いて、ツイーはなぜだか嬉しくなったものだった。
 ツイーは桶を抱えて、静かに部屋を出た。
 廊下は薄暗く、人の姿はない。
 ツイーは、朝方にハマムに向かうときは、もっぱら抜け道を使う。寝ている人の部屋の前を通るのは悪いような気がするし、抜け道を行くほうが早く着く。六年間のあいだに、最短の経路を見つけたのだ。
 足音を忍んで、人のようやく通れるような棟と棟のあいだを抜けて行く。石畳も地べたも関係なしに歩く。このまま手水の前を横切れば、寵妃のための一角から調理場の裏に出られる。
 ふいに、ツイーは足を止めた。
 水道の横に人がいた。
 彼は、もろ肌脱いだ格好で、流水で顔を洗っている。少し屈んでいて、こちらに気づいてはいないようだった。
 立ち去ろうとすればすぐにできるはずだった。
 水を弾くなめし革の肌。
 鋭い朝日の光を浴びて、しなやかな獣がそこにいるようだった。
 ツイーは、立ち尽くしたまま動けなかった。
 皇帝が、こちらに気づいたのか、顔をあげた。
 黒い髪から雫が滴り、首筋や胸のあたりに流れて落ちる。その褐色の肌のうえに、紅をこすり付けたようなあとがあるのに気がついて、ツイーの胸が奇妙な音を立てた。
 彼は目を瞠って、ツイーを見つめていた。
 ツイーはようやく我に返り、膝を折ろうとした。
「いい、誰もいない」
 皇帝はそう言って、蛇口をひねって水を止める。
 ツイーは姿勢を正して彼に向き直った。いたたまれずに目を伏せた。
「どこへいく?」
 ツイーは俯き、桶を抱きしめる。
「……ハマムへ」
「こんな時間にか」
 けげんそうな声だった。
「そうです」
「こんなところを通って?」
 ツイーはおのれの頬が朱に染まるのを感じた。それでも声を絞った。
 こんなことは、彼の前でははじめてだった。
「近道なのです」
 彼はきっと昨晩、どこかの寵妃の部屋に泊まったのだ。閨で首筋に女の唇を押し付けられて、紅が肌に移ったのか。想像の生々しさに、ツイーは目が眩むような心地がした。
 彼はその紅を落とすために手水をつかっていたのだろう。後宮で過ごした翌朝は、彼は皇太后の元に朝の挨拶に行くようにしていると聞いている。さすがにあのままではよろしくないと考えたのか。
 後宮の中には彼のための湯殿もあるが、そこをわざわざ誰もが休んでいる夜明け方に開けさせたりはしないのだ。
「石鹸」
 と、彼は短く言った。
 聞き取れずに首を傾げたツイーに向かって、彼はもう一度口を開く。
「石鹸を持たないか」
 彼は紅のあとを見下ろしている。水では洗い落とせなかったのだろう。
 ツイーは少し逡巡して、桶の中から金色の石鹸箱を取り出した。おそるおそる彼に歩み寄り、それを差し出す。
 彼は右の手でそれを受け取って、顔を洗い始めた。
 ツイーはすぐに彼から目を反らした。間近で直視していることができなかった。
 水滴が、ひとつふたつツイーのソリにかかった。水音がしばらく続いてやがてやんだ。石鹸のやさしい香りがただようのに、ツイーの肩から力が抜けた。
「助かった」
 皇帝はツイーに石鹸を返し、濡れた前髪をかきあげた。草むらに放っていた胴着を拾い上げ、さっと羽織る。
「調理場の裏を通っていくのか?」
 ツイーは小さく頷いた。
「ハマムに行くなら、もっと早い道がある」
 と、彼はツイーの手首を掴んだ。
 ツイーは腕を取られたまま、彼の行く先についていった。
 彼の顔は見えなかった。その広い背を見つめていると、いつの間にかハマムの前についていた。
 道順は、思い出そうにも思い出せなかった。




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