オダリスク
7 鸚鵡の夢の色








 グエンと二人の夕食を済ませて、ツイーは窓辺に座った。
 一昨日の朝、グルガンの名でツイーのもとに贈り物が届けられた。
 薔薇水や石鹸などの消耗品に、皇帝の誕生日の宴に装うためにと新しいかんざしや耳飾りが幾つか。やはりグルガンの母が選んでくれたもののようで、グエンも眼を輝かせながら見入っていた。
 けれども、一番にツイーの心を騒がせたのは、大きな金色の鳥籠だった。
 鳥は、眼は黄色でぎらぎらとして、身はツイーの顔よりも大きかった
 羽は濃淡の灰色で、お世辞にも美しいとは言えない。
 グエンはこの鳥を見るなり、眉間に皺を寄せて『グルガンどのの趣味でしょうか……』と苦々しげに言った。彼女は六年前から、グルガンの雅趣を欠いた感覚を疑っている。
 けれど、ツイーはこの贈り物に夢中だった。
 窓辺に鳥籠を置き、暇さえあれば餌をやったり遊んだりする。
 グルガンの添えた手紙によれば、この鳥は鸚鵡の仲間なのだという。ツイーがグルガンの館で読んだ絵巻物のなかの鸚鵡は、赤や青色の極彩色の羽で派手派手しく身を飾っていた。
 記憶の中の姿に似ても似つかぬこの鳥に、ツイーは初めは首を傾げた。けれども、手紙の続きを読んで、すぐにこの灰色の鳥に夢中になった。
 鳥は樫の止まり木の上で、せわしなく羽を繕っている。
「お腹がすいた?」
 鳥は声に反応し、ツイーのほうに首を巡らせた。
 ツイーは笑みを深め、水と餌を取り替えるために鳥籠を開けた。鳥は朗らかでやんちゃな気性で、しきりにツイーの手にじゃれてくる。
 鳥が、豆を摘まんだツイーの指にかみついた。
「悪い子、痛いわ」
 鳥はおとなしく指を離し、ツイーの豆をくちばしにくわえる。
 ツイーはそのあいだに、手早く水を取り替えて鍵をかけてしまう。
「いただきますは?」
 ツイーがラサの言葉で言う。すると、この国の言葉で挨拶が返ってくる。
「いただきます」
 甲高い声音は鳥のものだ。取り落とした豆が鳥籠の底に転がった。
 いつもの儀式を終えて、鳥は餌を食べ始めた。せまい籠の中で器用に首を曲げ、夢中で皿に顔を突っ込むさまがいじましい。
 グルガンはこの鳥を、皇帝の南方視察に付き添っていったときに買い求めたのだという。人の言葉を覚えられるほど賢いと聞いていたので、道中に細々話しかけていたら、あっと言う間にけたたましく喋るようになったらしい。さらにラサ語を覚えさせ、簡単な挨拶を訳せるように仕込んで、ツイーの元に届けてくれた。
 鳥は、ラサ語で挨拶すればこの国の言葉に訳し、反対ならラサ語で返してくれる。グエンは、可愛くない、この国の言葉を喋るのも気に食わないといって極力近寄らないようにしているので、世話はもっぱらツイーの仕事になった。
 鳥は、満腹になったのか、止まり木のうえで羽に顔を埋めている。
 幼鳥なのでよく眠るのだ。
 鳥籠に覆い布をかけてやろうと、ツイーが立ち上がったときだった。
 衣擦れの音がした。
 ツイーは何気なく振り返る。グエンも手を止めて顔を上げた。
 部屋の入り口に皇帝が立っていた。ツイーとグエンは跪いて平伏した。グエンが手早く片づけを終えて出て行き、ツイーは皇帝と二人で部屋に残された。
 顔を合わせるのは、石鹸を貸したあの朝以来だった。
「それは何だ?」
 皇帝が訝しげに、窓辺の鳥籠に視線を投げる。
「鸚鵡です」
 と、ツイーは籠のなかの鳥を見つめた。指でそっと金色の格子を撫でる。鳥の白くふわふわとした肩が、かすかに上下している。
「グルガンどのが、何日か前に寄越してくださいました」
 皇帝は面白くなさそうに鼻を鳴らした。あまり興味がないらしい。
「寝る」
 短く告げて、皇帝はツイーにいつものように銀の香時計を差し出した。ツイーはそれを受け取り、彼を寝室に残して居室に戻る。
 そばで香を焚くのは鳥にはよくないと思って、部屋の隅に香時計を置いた。窓辺に座って、金色の鳥籠のなかを眺めた。起こしてしまわないように、囁くほどの声で歌を口ずさむ。
 何かの世話をするというのは、とてもやさしい気分になれることだ。
 ツイーはぼんやりと考える。
 もしも自分に子供がいたのなら、ここでの暮らしは変わっていたのかもしれない。
 後宮に入ったとき、ツイーの心は半ば凍り付いていた。凍りつかせたまま生きていくのだと思っていた。自分はラサからの人質で、ただ息をするだけの人形なのだと。
 皇太后の言葉もあって、仇である皇帝の子供を産むなど想像するだにおぞましいと思っていた。ラサの王家の血はツイーで絶える。それでも、ラサの愛しい人々が穏やかに暮らしていけるなら、それでかまわないのだと。
 だが、その実はどうだろう。
 ツイーは、心地よさそうに眠る鸚鵡を見つめた。
 こんなにちっぽけな温もりに縋りたくなるくらい、自分は弱い女だった。
 この国の言葉はあっと言う間に覚えた。グルガンとその母とは、家族のように時を過ごした。後宮のあちこちで耳に入るおしゃべりも、ほとんど意味を理解していた。ハマムにだって毎日のように通った。
 ツイーは、後宮の隅で、子供も産まず、野望も持たずに生きていく。
 生きていかなくてはならないのに、簡単に心を揺すぶられてしまう。
 愛してはいけない。
 彼は憎い男だから。
 父を殺し、ツイー自身を辱め、後宮に捕らえて飼い殺しにしているのだから。ツイーの何もかもを奪った男だから。
 憎むことをやめたら、きっとツイーはこの場所で生きていく理由を失う。自分が生きていることを、自分自身が許せなくなってしまう。
 ツイーはこうして生きている。
 だから、彼を愛してはいない。
 まだ、憎んでいる。
 唇が震えた。小さな呻きを押し殺し、歌い続けた。
 歌うのは、弔いのため。
 そして、おのれへの戒めのため。
 ツイーは、膝のうえでソリを握りしめる。
 詞が三節目にさしかかったときだった。
「おそれいります」
 仕切り布の向こうから、ひそめられた声。
 ツイーは歌うのをやめた。
 部屋に人が近づいてきたことに気づかなかった。
「皇帝はそちらにおいででしょうか」
 ツイーは立ち上がって入り口に向かう。布をあげた向こうにいたのは、痩せた中年の女だった。皇太后の側近で、皇太后からの数少ない連絡はいつもこの女を通じてなされている。
 すぐに出てきたツイーを、女は検分するような目つきで見た。それはほんの一瞬で、すぐに女は無表情に戻る。
「皇帝はこちらにお出ましでしょうか」
「奥にいらっしゃいます」
 そう告げると、女の片眉が微かに上がった。
「何か?」
 ツイーが問う。女は落ち着き払った声で言った。
「皇太后が皇帝をお呼びです」
「皇太后が?」
 女は小さく頷く。
 皇帝は、後宮を訪れたときと出て行くとき、必ず皇太后に顔を見せにいく。ついさっきも皇太后のもとをおとなったはずだった。
「すぐにお越しいただけますでしょうか」
 ツイーは訝しく思いながらも頷き、ゆっくり仕切り布を下ろした。
 女が遠ざかっていく気配も、やはりツイーには感じられなかった。
 そっと寝室に入った。皇帝はツイーの寝台のうえで、向こうに背を向けて横たわっていた。
 いつも、彼を起こすときは、寝台の横に膝をついて時間だと告げる。彼はまるで待っていたかのように起き上がる。
 けれど、今日は、何と言葉をかければいいのだろう。
「あの」
 おそるおそる声を出してみるが、反応はない。 
「起きてください」
 まだそう経っていないはずなのに、眠りが深いのだろうか。
 ツイーはそっと彼に手を伸ばした。
 ふいに、今、彼のこの首を絞めたら、彼を殺せるかもしれないという考えが頭をよぎった。
 これまで、機会は数え切れないくらいあった。
 それなのにそうしなかった。
 それは、ツイーの身がラサのための担保だから。彼を害すればラサに累が及ぶから。
 ツイーは、彼の肩を小さく揺する。肩は存外に硬く、分厚かった。
 皇帝は寝台の上で寝返りをうった。
 驚いて手を引っ込めるツイーを、潤んだような黒い目が見上げてくる。
「……何だ」
 声は不機嫌そうだった。ツイーは目を伏せて答える。
「皇太后が、お呼びだそうです」
「なぜ?」
「わかりません。すぐに来ていただきたいと」
 皇帝は息を吐くと、気だるげに寝台から身を起こした。まるで頭痛をこらえるように、額にてのひらをあてる。
「寝ていた」
 いつもは寝ていないとでもいうような口振りだった。 
「今日は、歌が聞こえなかった」
 ツイーははっとして顔を上げた。
 だが、すでに彼は部屋を出て行ったあとだった。
 居室の隅に置いた香炉が、細く煙を流している。







 

 
 ツイーは、皇帝の忘れていった香炉をもてあましていた。
 皇帝が取りに戻るかもしれないと、ぼんやりと待っているうちに夜も更けた。ツイーは、鸚鵡の籠に覆いをかけ、香炉はその横に据え置いて寝室に戻った。
 少し寝乱れた敷布を整え、寝台のうえに腰掛ける。
 見上げた窓から、月明かりが降り注ぐ。
 その光がどこか冷たいような気がして、枕のうえの温みに頬を寄せた。




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