深淵 The gulf







 北風は丘から吹き下りて、湖のうえを滑り、深い森へとしのびこむ。
 ブレンデン邸の子供たちの遊び場は、丘のもとの小さな湖と、深い森の入り口だっ た。
 けれど、今はそこに小さな足跡は見当たらない。
 銀色に埋め尽くされた世界に、あるのは細く長いひとつの人影。
 それが誰のものなのか、マクシミリアンには確かめるまでもない。
 彼女は、凍りついた湖を見つめていた。
 この時期の湖には分厚い氷が張っていて、もっぱら子供たちが氷滑りを楽しむ場所 になっている。
 最後に彼女を連れてここにきたのは、もう五年近く前のことだった。ひどく遠い昔 のように思える。
「……シーナ」
 彼女はゆっくりと振り返った。雪風になぶられた髪が揺れた。
 まるい緑色の瞳がマクシミリアンをとらえた。
 自分はずいぶんと長い間、この目とまともに視線を合わせようとはしなかった。言 葉をかわすことも、必要以上に近寄ることもしなかった。
 それが正しいことだと信じて、もやもやとした気持ちを抑え続けてきた。
「探したんだぞ。終わるなりいなくなるから」
 彼女のかぶる帽子も、外套も、襟巻も深靴も、身に纏うものすべてが黒色だ。そし てマクシミリアンのものも。
 マクシミリアンの母が息を引き取ったのは、六日前の朝方だった。彼女は、たった ひとりの肉親の息子と、実の娘とも思って養育したシーネイアに看取られて逝った。
 恐ろしい病の、かけらも感じさせない死に顔だった。
「……ごめんなさい」
 彼女は目を伏せた。
 以前には決してしなかった仕種だった。一体いつから、こんな顔をするようになっ たのか。
 マクシミリアンの母は、樵の父とお針子の母との家に生まれて、十五のときにブレ ンデン邸に侍女としてつとめはじめた。二十になる前に侯爵家の従者の父と結婚し、 すぐにマクシミリアンを生んだ。
 母がシーネイアの乳母になった経緯は、詳しくはわからない。シーネイアの生まれ る前後にみごもっていた様子もなかったらしいから、シーネイアに乳をやったのは別 の女だったのかもしれない。
 ただ、シーネイアの母親も、侯爵の愛妾になるまではブレンデン邸で働いていた侍 女だったと聞く。
 記憶のなかにあるシーネイアの母は、いつも寝台の上にいた。
 子供心にも美しい人だった。細い声で穏やかに話し、マクシミリアンにむかって微 笑みかけてくれた。
 年齢も近かった二人は友人どうしだったのかもしれない。二人がともに泉下の人に なった今は知ることのできないことだったけれど。
 今朝、マクシミリアンは、城下町の教会でささやかな母の葬儀をあげた。
 教会のそばの墓地で埋葬を終えたあと、マクシミリアンは、シーネイアが姿を消し ていることに気がついたのだ。
 マクシミリアンには彼女の訪れたところについて、思い当たる場所が二つあった。
 まず彼は屋敷へ戻って母の部屋に彼女の姿を求めた。
 甘ったれで泣き虫のシーネイアは、乳母との思い出に慰めを求めたに違いないと考 えた。
 けれど彼女はそこにはいなかった。
 そしてマクシミリアンはここに来た。雪に覆われたゆるやかな丘を下り、幼いころ 駆け回った湖の縁へ。
 はたして彼女はそこにたたずんでいた。
 シーネイアの姿を見つけだしたのはよかったけれど、これから何を話すべきか、マ クシミリアンは困惑した。言わなくてはならないことがたくさんある気がするのだが 。
 ふいに、七日ほど前に、彼女の頬を張ったことを思い出した。
「……ほっぺた」
 ぽつりとマクシミリアンは呟いた。シーネイアが目をあげた。
「痛かったか。ほっぺた」
 彼女は、しばらくきょとんとした顔をしていたが、すぐに唇に綻ばせた。
「へいきよ。びっくりしただけ」
 シーネイアは、毛皮の手袋をはめた手を左頬にあてる。
「誰にもぶたれたことなんてなかったの。ほら……、小さいころは誰と喧嘩してもみ んな手加減をしてくれたし、アーニャはたまに怒っても、手をあげたことなんてなか ったし」
 また、彼女は俯いた。
「うれしかった。私はあなたと同じだって、言ってくれたみたいだったから」
 そうだ。
 あのとき一瞬だけ、彼女が侯爵の娘だということを忘れた。
 マクシミリアンを涙を溜めた目でにらみつけてきたシーネイアが、ただの一人の少 女に見えた。
 苦しむ母を前にして何一つできない自分と同じ、ちっぽけな人間に。
 五年もの間、自ら強いて隔たってきた相手だった。
 十三になった年から、マクシミリアンは、身分が違う生きる世界が違うと、シーネ イアを可愛く思う気持ちも側にいてやりたい気持ちも殺して、分別のある人間になろ うとつとめてきた。
 きっかけなどなかった。
 あのときは賢しらに、これまでシーネイアを実の妹のように扱ってきた自分の手落 ちに気づいたつもりでいた。
 彼女の温かい肩を抱きしめたとき、彼女の手が震えるマクシミリアンの背をたどっ たとき、杯から水が零れるように、何かが溢れて止まらなくなった。
「シーナ」
「なあに?」
 マクシミリアンは目を閉じた。
「母さんの言った通り、俺はおまえが嫌いなんかじゃない」
 マクシミリアンの剥き出しの顔に雪が触れる。その冷たさを掻き消すほどおのれの 頬が火照っているのを自覚しながら、おそるおそる目を開ける。
 さぞ滑稽だろう。
 今までマクシミリアンは、彼女に対して無関心をきめこみ、ぶっきらぼうにしか接 してこなかったのだから。
「子供のころから、今でも、ずっと同じだ」
 シーネイアの瞳が揺れた。
「おまえは俺のほんとの妹じゃないし、侯爵様の娘だ。俺はおまえとは違うんだって 考えてた」
 血の繋がりがないから彼女に焦がれてもかまわない。けれど、侯爵家の娘だからこ そ、そんな感情をシーネイアに対して持つことは許されない。
 無心に自分を慕ってくるシーネイアが可愛いかった。嬉しくも、苛立たしかった。
 ためらいがちに、シーネイアが口を開く。
 どんな言葉が発せられても答える覚悟があった。
「それで……それで、ずっと、私を遠ざけたの?」
 考えてみれば、なんと愚かなことをしたのかがわかる。
 五年の時が経っても、何一つ変わってはいないのだ。
 マクシミリアンはうなずいた。
「……これからも、そうするの?」
 二人の間に、鋭い雪風が吹いた。
 交わる視線は揺れなかった。
「おまえがそうしてほしいなら」
 シーネイアは、はにかむように俯いて、小さく首を振った。
 マクシミリアンはシーネイアに歩み寄った。彼女は待ってくれているかのように、 そこを動かなかった。
 マクシミリアンは雪にまみれた手袋を抜き取った。
 手を伸ばして彼女の頬に触れた。
 薄紅色の滑らかな肌は、けれど、ひどく冷たかった。
 両掌で頬に熱を与えた。
「温かいのね」
 首を少し傾け、彼女が笑った。
 シーネイアは、何か思い出したかのように目を見開いた。
 そしてそっとマクシミリアンの手を退けると、首に巻いていた襟巻を外しはじめた 。手編みの長い襟巻きだ。
 シーネイアはそれをマクシミリアンの肩に掛けた。二重に巻いて前をゆわえる。
 彼女の体温がマクシミリアンの顔のまわりをふわりと包む。
「……くれるのか?」
 襟巻きを見下ろしてマクシミリアンは尋ねる。
 シーネイアはマクシミリアンの左手を掴んで、再び頬に押し当てた。
 陶器のような肌の心地よい冷たさ。
「とりかえっこよ」
 緑の瞳がいたずらっぽく笑う。
 寒さのために赤みのさした鼻。
 十のときと少しも変わらない。
 マクシミリアンは、シーネイアの頭を引き寄せた。
 手で支えたのと反対の頬に唇を寄せた。
 身体を離すと、彼女が驚いた顔で見上げてきた。
 触れるだけのくちづけを落とした。
 こめかみ、まぶた、鼻のうえ。
 彼女はマクシミリアンを受け入れた。
 こどもの頃と少しも変わらぬ、何の恐れも邪気もない顔で。母を待つ赤子のような 表情で。
 だから、マクシミリアンは気がついたのだった。
 自分の抱く思いの熱さと彼女のそれは、決して同じではないということに。
 喪った肉親を求めるように、彼女は自分を慕っている。
 そのどうしようもない事実は、解けかけたマクシミリアンの心の表面に、薄氷のよ うな不安をまといつかせた。





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