深淵 The gulf







 春の訪れとともに、若き侯爵とその奥方、そしてその妹君がブレンデン邸に到着した。
 丘のもとの湖では、ぬるんだ水のなかに魚の群れを見つけることができる。
 森は雪化粧を払われ、やすらかな呼吸をはじめた。
 原には小さな花が絨緞のように咲き乱れる。
 それに負けまいとするように、町も活気を取り戻した。
 朝一番の市が夜明けとともに開かれ、冬の間行なわれなかった交易も再開された。
 侯爵領は、そのもっとも美しい季節にふさわしい、新しい主を迎え入れたのだった。





 侯爵の十日間の滞在は、ほとんど全ての時間を公務に費やした。
 三月ばかり遅らされた侯爵家の代替わり。
 儀式典礼が毎日のように行なわれて、そのために館の人間が仕事に駆り出された。
 そのあいだじゅう、シーネイアは自室にとどまり、誰にも姿を見せずに静かに過ごしていた。それが常のことだったし、シーネイアはこれからもそうすべきものと考え  侯爵の秘書が、シーネイアの部屋の扉を叩いた。シーネイアは、何度かその老年の男の姿を見たことがあった。銀色の髪を後ろになで付けた慇懃な紳士は、父のそばに長く仕えていた男だった。
 一家が王都へ帰還するその前日に、侯爵はシーネイアに自身との面会を命じたのだった。
 侯爵の姿を見たのは、もう十年近くも昔のことになる。それも、たった一度掠め見たきりだ。
 シーネイアは総身を強ばらせて、侯爵の客間の長椅子に掛けていた。
 父とのささやかな思い出のあるこの部屋で、兄とふたりきりで会うことになるとは、シーネイアはつゆとも考えたことはなかった。
 数え切れないほどの芸術品は、今でも、ひっそりと主の帰りを待っているように見えた。
 いきいきと踊る春の女神を描かれた絵も、蓋を開ければ優しい音楽をかなでる木箱も、息をひそめて、その身を部屋の端に沈め、じっとしているのだ。
 シーネイアをこの部屋に入れるなり、秘書は長椅子に掛けるよう彼女に促した。すると彼はそのまま部屋を出ていってしまった。
 ロレンツは、シーネイアが入ってきたのにもまるで気づいていないかのように、壁に向かって立っていた。
 その手は煙管でも扱っているのか、絶え間なくゆっくりと動いている。
 金色の髪が藍色の上着に映えていた。
 はじめて間近で接する兄は、あのときから少しも変わってはいないように見えた。
 いとけないシーネイアに冷たい一瞥を呉れた金色の髪の青年は、そのままに目の前に立っていた。
 けれど、シーネイアは違う。
 もう、自分は悲しい出来事にすぐにしゃがみこんでしまう子供ではない。乳母の温かい手に慰めてもらってやっと泣くのをやめるような、そんな幼女ではなくなっている。
 そのはずだった。
 けれど、ただその後ろ姿を見ただけなのに、シーネイアは顔を上げられなくなってしまったのだった。
 彼が振り向くのが怖かった。
 再び、父と同じ緑色の目は自分を見据え、疎ましげに細められることだろう。
 それがわかっているからシーネイアは俯いてしまうのだ。
 あのとき母の寝台のそばで泣き続けた自分は、傷ついたままの心を抱えて、シーネイアのなかにうずくまっている。
 シーネイアは、おのれの膝のうえで拳を握り締めていた。てのひらに爪を立てて、からだの強ばりをおさめようとした。
 けれど、痛みなど感じる余裕もないほどに、この部屋は寒々しかった。
 毛織りの肩掛を身に巻き付けていながら、温かなびろうど張りの長椅子に掛けていながら、シーネイアはこらえきれない怯えに震えていた。
 彼はゆっくりと歩き始めた。シーネイアの目の前の暖炉で立ち止まる。
 シーネイアは奥歯を噛み締めた。
「……この部屋に来たことはあるか?」
 深い声だった。はじめて聞く兄の声は、父のそれによく似ていた。
 答えかね、シーネイアは目を伏せた。
「趣味の悪い部屋だ。なぜこう無用なものを集めて仰々しく飾り立てるのか」
 ため息が聞こえた。
 必要ないものなどではない。
 ここにあるすべてのものが、温かく繊細ないきものだ。
 手で触れられ、見つめられ、愛でられてこそ呼吸を繰り返すものだ。
「無用なものは、主人に美しいと思われてはじめて価値がある。そうでなければ厄介にしかならない。そうだろう?」
 本当に手に余る。
 心の底からというように、彼は言った。
 シーネイアはきつく目を閉じる。
 目の奥がじわりと熱くなる。
 彼の手に余っているのは、他ならぬ、シーネイア自身だ。
 何の役にもたたない娘は、愛情もかけてもらえない娘は、厄介ものにしかならないのだ。
「父はそういうものを好き好んで身の回りに置いたが、私にはそういう趣味はない。せめて、私の手を患わせることだけはしてほしくはないものだな」
 彼の靴が絨緞をふみしめてシーネイアに近寄る。身じろぎひとつとれなかった。
 ロレンツは向かいの長椅子に腰掛けた。
「父の遺言を伝えよう。おまえをいつ誰のもとに嫁いでもいいような令嬢にしろ、だそうだ。最後の粋狂といったところだな」
 嫁ぐ。
 その言葉が、突然に胸に突き刺さった。
 自分が誰かの妻になる。考えてみもしなかったことだった。
「教師を変える。それから、不用意に使用人と馴れ馴れしくするのをやめろ。おまえにはおのれの身分についてあまりにも自覚がなさすぎる」
 それは、厩舎でブグネル親方とともに働いたり、調理場へ行って菓子作りをならうことを言っているのだろうか。薔薇の世話をすることを言っているのだろうか。マクシミリアンと、実の兄と妹のように時を過ごすことも。
「誰にでも愛想を振りまくようにできているのは乳母の教育のたまものか? それとも母親の血筋のせいか? おまえと妙に親しいというのはどの下男だ。侯爵家の名を辱めるような真似は許さんぞ」
 シーネイアは、突かれたように顔を上げた。
 自分のことは、なんと言われてもかまわない。悲しいだけだ。
 自分は確かに、この館にはふさわしくない人間なのかもしれない。主である彼がそう思うのなら、きっとそうなのだろう。
 けれど、母とアーニャのことは違う。マクシミリアンのことも違う。
 母は決して近しい存在ではなかったけれど、シーネイアに指輪を残してくれた。アーニャは実の娘にするのと同じだけの愛情を注いでくれた。私のような半端な存在に心をかけていてくれた。
 ロレンツは唇に微笑を浮かべていた。
 そして、苦々しげにシーネイアを見下ろしている。
 顔をあげても、シーネイアにできることなど一つもなかった。
 にらみつけることも、撤回しろと言うことも、この部屋を毅然と立ち去ることもできはしない。
 彼は、片眉を釣り上げたまま吐き捨てる。
「話はそれだけだ。出ていけ」
 シーネイアはただ、この半分だけ血のつながった男の言うことを聞きいれるしかない。命じられてはじめて、この屈辱の場から目をそむけることができるのだ。
 シーネイアは動けない。
 いつから部屋にいたのか、秘書が静かに歩み寄ってきてシーネイアを立ち上がらせた。シーネイアは、彼に肩を抱かれ、半ば引き摺られるようにして控えの間に出た。  秘書はシーネイアを椅子に掛けさせ、その足もとにひざまづいた。
 シーネイアはしばらくのあいだ手足の震えをとめられないでいたが、ゆっくりと糸をたどるように、次第に思考を取り戻しはじめた。
「……おとうさまは……」
 虫の鳴くようなか細い声だ。
 もしもほんの少しでも気を抜いたら、堰を崩して何かが心から流れ出てしまいそうで、シーネイアはゆっくり思考のなかの言葉を拾い集める。
 秘書が目線をあげる。
「ほんとうに、私を誰かに嫁がせるようにおっしゃったのですか」
 秘書は表情を変えなかった。
「そのように聞いております。わたくしは、その場にはおりませんでしたが」
 シーネイアは彼の灰色の目を見つめた。彼は父よりも若かった。記憶にある姿から、ずっと年をとっていないような気がした。
 シーネイアには、まるで彼自身が父であるかのように思えた。
「なぜ……?」
 首を傾げ、唇をゆがませる。
「私は何の役にも立たないし、美しくもない。誰の奥方になれるの? どうしておとうさまはそんなことをおっしゃったの?」
「お嬢様は、美しくおなりです。それに、旦那様は、お嬢様が望まれたときに望んだお相手とお幸せになることを願っていらっしゃったはずです」
「でも、ロレンツ様はちがうわ!」
 シーネイアは立ち上がった。
「あの方は、私など見るのも嫌だという顔をなさっていたもの。嫁がせるなんて煩わしいことだって」  自分は疎まれているのではない。
 憎まれているのだ。
 兄に、そしておそらくはその夫人や姉にも。 シーネイアは、由緒正しい侯爵家の汚点だ。父の遺した負の形見だ。
 わかっていた。自分は高貴な令嬢にもなれず、館の使用人にもなれず、半端なままこの館にうずもれていってしまうのだと。それでもマクシミリアンがそばにいてくれるから、そのままでもかまわなかったのだと。
 どこかの誰かの妻になってしまったら、自分はたった一つの安らぎまでも無くしてしまう。
 シーネイアは秘書に背を向けた。
「帰ります。一人で戻りますから、ついてこないでください」
 大股で扉へ向かい、そのまま廊下に飛び出した。





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