深淵 The gulf
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 グラニスは、ほとんど彼の愛妾の声を聞いたことがない。
 彼女は王妃である姉にはばかって王宮へやってきたので、公式のお披露目も挨拶などもしなかったし、初めて顔を合わせたときはほとんど言葉も交わさぬうちに焦りのままに彼女をものにした。
 いらい、一月のあいだ、彼女は貰われたばかりの猫のようにおとなしく、おびえていると言ったほうが正しい態度を崩さない。いっそかたくななほどに、だ。
 彼女はろくに自分から口をひらくことなどないし、グラニスが何か話しかけたり問いかけたりしても、大きな目を困ったように丸くして、ゆっくりと小さな声で答えるだけだ。
 血を分けた姉妹といっても、カメリアとは全く性質が異なるらしい。カメリアならば、一言声をかければ、絶妙の具合で気のきいた返事をひとつふたつ寄越してくるものだ。
 それも当たり前のことではある。
 かたや幼いころから宮廷に出入りをし、骨までも貴婦人としての教育に染められた王妃。
 かたや、辺境の領地で育ち、雪に降りこめられた館から出たこともないような娘。
 それも、グラニスの調べさせたところによれば、シーネイアは侯爵家の籍に入っていないばかりか、兄であるロレンツにひどく疎まれて、母親が生きているときから侯爵家の人々とはほとんど顔を合わせることはなかったという。母親亡きあとは乳母の手によって育てられたが、その乳母も城下のもとお針子だったらしい。館の者は、控え目ながらみな口を揃えてこう言ったという。「明るく可愛らしいお嬢さまだが、それがかえって不憫なほどにお気の毒だった」と。
 夜会への招待やサロンへの誘いも幾つか届いているが、とても自分などの出られる場所でないと言って首を縦に振らないらしい。
 グラニスの置いた愛妾の存在は、王宮においては暗黙のうちに受け入れられている。
 彼女は名目上は王妃の侍女として王宮にいる。しかし、彼女が国王夫妻の結婚と前後して国王の寵愛を受け始めたことも、彼女が王妃の異腹の妹であることも、兄によって哀れにも差し出されたのだということも、今や知らぬ者はいないのだ。
 絹の服と美食と噂話によって生きながらえているような貴族連中のあいだで、与えられた宮室にこもりきりの愛妾の評価は決して高くない。早くも「洗練されない田舎女」「陰気くささは修道女並み」などと囁かれているという。
 だが、少なくとも、そんな下馬評を公にすることをグラニスは無言によって抑制しているし、彼の妻も同様だった。新婚間も無いうちに異母妹に夫を奪われたかたちとなった王妃は、取り澄ました顔で夫を愛妾の部屋に送り出すのだ。
 彼女が陰気くさい性質だとは、ある意味言いえているのかもしれない。
 グラニスは、彼女の笑った顔などたった一度しか見たことがない。いや、それどころか、グラニスは夜にしか彼女と顔を合わせていないのだ。
 三日か二日に一度、執務を終えた宵の口に、グラニスは彼女の部屋を訪れる。前もって知らせているから、彼女は落ち着いた様子で迎えてくれる。向かい合って途切れがちな会話をかわし、そのまま寝室へうつる。
 たったそれだけの、順序立てられた夜の逢瀬だ。
 その短い時間の外の彼女をグラニスは知らない。側に置いた侍女によれば、シーネイアは、日がな本を読んだり庭を眺めたり、まるで遊びをしらない子供のように暮らしているのだという。
 国王のただひとりの愛妾という立場にいて、女として手に入らないものは何一つないはずだ。宝石も絹の服も、この国のどこにあるどんな贅沢品でも取り寄せてやれる。この自分が、望みさえすれば名誉や栄華までもを与えてやれるのだ。
 初めて抱いた夜だったか、中庭に作らせた薔薇園を彼女に見せたときだった。
 抱き上げられて、彼女はか細い声で美しいと漏らし、感慨深げに目を細めた。彼女の、月明りのもとで白かった額、なめらかな輪郭、やさしい瞳。けぶるような睫がまたたきに合わせてその陰を揺らしていた。
 彼女があまりに得難く、頼りない存在に思えた。
 けれど一瞬でその顔はくもり、彼女は俯いてしまった。
 あのときの、微笑みともつかない恍惚の表情。あれがもう一度見たいのだ。
 いてもたってもいられなくなり、グラニスは大急ぎで書類を片づけることにした。
 午餐の時間に彼女の部屋へ行こう。
 闇の帳の取り払われた、真昼の明るい白い部屋で、シーネイアに会うのだ。





 居室の扉を開けると、侍女が立っているのと、シーネイアが椅子に掛けているのが見えた。卓のうえにささやかな食事が整えられていた。侍女は給仕に立っているらしい。侍女はぎょっとした顔でグラニスを認め、慌てて礼をとった。彼女は掛けたまま目を瞠っていた。
「陛下」
「驚かせたな」
 彼は言って、立ち上がろうとするシーネイアを制した。侍女に自分にも何か用意するように命じて、向かいの椅子に腰掛ける。
 彼女の長い金髪は簡単にまとめられて、幾つか真珠のピンを差されていた。見覚えのある深い藍色のドレスは、白い肌によく映えていた。顔は透き通るように白く、頬だけが赤く染まっている。折れてしまいそうな首から肉づきのうすい肩までの線は、華奢さと痛々しさとのぎりぎりの境を描いている。
「陛下、なにか……」
 彼女は小鹿のような目をしてグラニスを見上げる。戸惑いを隠せないらしかった。
 こんな顔を見たかったのではなかった。
 自分の機嫌を伺って、甘えておもねるような真似は、彼女にはふさわしくない。
「用がなければいけないか」
 シーネイアは傷ついたような顔をした。
 そうしてグラニスはようやくおのれの失敗を知る。吐いた言葉が刺々しかったのだ。
 給仕が数人やってきて、料理を並べ始めた。そのあいだ、互いに黙ったきりだった。居心地の悪さに空腹など紛れてしまう。
 グラニスは淡々と料理を口に運ぶ。目の端で彼女の皿を見る。シーネイアは、食事をするのがたいそう遅かった。貴婦人とはたいてい少食なものだが、シーネイアは小鳥の餌ほどにも食べていないように見える。
「午餐が済んだら、ふだんは何をするのだ?」
 彼女は手を止めた。
「しばらく、庭園におります。庭師がきますので」
 小さな声だった。
「なぜ、園丁がくると庭に行くのだ?」
 彼女はくちもとに手をやった。言ってはならないことでも口にしたような顔だ。
「なぜ?」
 グラニスが繰り返すと、彼女は目を伏せた。
「……とても腕の優れた方で、側でお仕事を拝見しています。花のお話も、とても興味深いので。それから……」
「それから?」
 グラニスはシーネイアの顔を覗き込んだ。
 初めてだった。彼女がこれほど長く話しているのを見るのは。
「それから、少し、お手伝いもいたします」
 確かに、王宮で誉められるような類の話ではなかった。彼女の兄も苦々しげに言っていた。使用人に混じって立ち働く娘だと。
「故郷にいたときも、そのように園丁のところへ?」
 語りつづけてよいものか、彼女は迷っている。
 グラニスは唇を緩めた。
「いいから、話しなさい」
「……調理場にもまいりました。洗濯や、馬の世話も手伝いました。みな、ずっと、とてもよくしてくれました」
「そうか」
 グラニスは笑みを深めた。
 いくらかシーネイアの緊張もほぐれたようだった。
 そのあとも幾つか言葉を交わして、二人は食事を終えた。
 執務室に戻るグラニスを、彼女は深い礼で見送ってくれた。
 最後まで彼女の笑った顔を見ることはできなかった。





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