深淵 The gulf
15






 ある朝方にシーネイアの宮室へ現れたのは、侯爵の遣いだという老紳士だった。
 シーネイアが客室へ入ると、彼は長椅子から立ち上がって慇懃に頭をさげた。
 王宮へ来て三月あまりが経ったが、シーネイアのもとへ客人が訪れたことは今日までなかった。当然、この客室が使われたのもはじめてだった。
 シーネイアは彼の向かいに腰掛ける。
「ご機嫌うるわしゅう存じ上げます。このたびは、候より伝言を預かってまいりました」
 彼のふさふさとした眉の下、白目の濁ったような瞳がシーネイアを見据える。けれど、彼の物言いも視線も、少しも老いを感じさせないのだった。
「うけたまわります」
 シーネイアは答え、彼の言葉を待った。
 なぜだかこの紳士の声は、聞くと心休まるような思いになるのだった。
「宮廷にて人々のお話をうかがうところによりますと、シーネイアさまは居室よりお出でにならず、あまたの夜会やお茶会へのお誘いにもお断りの返事をなさっているとか。
 候は、お申し出に対しては、なにとぞ穏便に承諾くださるようにと」
 シーネイアは瞬きをくりかえした。
 侯爵は、シーネイアが館にいたころは、公の場所へ出るな、人前に姿を現わすなとあれほどきつくシーネイアに言い含めたのだ。だから、彼女は侯爵の意図が理解できないでいる。
 紳士はシーネイアが訝しげな顔をしているのに気づいたのか、さらに続けた。
「あなたさまのお気持ちはお察しいたします。突然にこのようなことを言われても、すぐさまにとはまいりませんから」
 彼は眉を寄せて視線をそらした。
「申し上げにくいのですが、候はあなたさまに、なるべく宮廷の方々とのあいだに波風をたてていただきたくはないのです。ただでさえ、あなたさまは表にお出でにならず、他の貴族がたとの接触をお持ちにならない。
 宮廷にはびこるくだらない噂話などお聞き及びではないかもしれませんが、候は、あなたさまと王妃殿下が長らくご確執という拠所のない噂のために、さまざまに憂慮しているのです」
「カメリアさまの御名に瑕がつくから……、と?」
 紳士はうなずかなかった。しかし、否とも答えはしなかった。
 シーネイアは唇をゆがめた。
 悲しい笑みしか浮かばなかった。
 そうだった。自分は、兄のため姉のため、侯爵家の名のため、こんなところへやってきたのだった。どんなふうに扱われようとも黙って受け入れなければならない身の上なのだった。
 ほんの一瞬でも、兄が自分のことを案じてくれているなどと考えたのが愚かしかった。
 もう、シーネイアのことを気遣ってくれる人はいないのだから。
「それから、国王陛下の御公務の差し支えになるようなことを慎んでいただきたいと」
「御公務の?」
 シーネイアは繰り返した。心当たりがなかった。
「陛下のいらっしゃった翌朝は、なるべくお早く陛下をお見送りください。御朝食は妃殿下とともにお採りになるのが望ましいそうでございます。それから、先日、陛下が御昼食のお時間に先触れなくいらっしゃったことがあったそうですが、そのようなことは節度を乱すことになりますから、お控えいただきたく」
 シーネイアは頷いた。そのまま顔をあげられなかった。
「……わかりました」
 グラニスが突然に昼食をとっているシーネイアを訪れたとき、確かに彼女は驚いた。けれど、今までは国王は夜しかにやってこなかったから、彼が昼なかに自分に会うためだけに来てくれたということは、彼女をただ安らかにさせた。
 そう感じたおのれが、ひどくふしだらに思えた。
 シーネイアは膝の上で指を握り込む。
「……シーネイアさま」
 男の声が和らいだ。
 それが、父が自分を呼ぶときの声ととてもよく似ていたので、シーネイアは目を上げる。
「ブレンデン邸に、初雪が降りました」
 シーネイアは老紳士を見た。痛ましいものを見るような瞳をしている。
「ちょうどそのころでしたか、園丁が薔薇園に新しい株を入れたいというので、館だけでは手が足りず、城下から人を雇っての大騒ぎがおきました。
 新しい花は青みのかった薄紅色で、評判はなかなか悪くないそうです」
 シーネイアは彼の真意をはかりかねた。
 なぜこんなことを話すのだろう。
「今年も、冬支度は万全でした。
 ブグネルが末の息子を馬屋に連れてきて、さっそく他の兄たちとともにしごきあげておりました。ところがついてきた女房が一人では家には帰らないと言い出して、大喧嘩したあげく結局家族全員が館に住み込むことになりました」
 いつのまにか彼女は話に聞き入っていた。
 茶色い頭の幼いディンムを思い出す。同じ髪の色をした気の強そうな奥方も。
「しばらくして、今度は小さい末息子がごねて泣きました。馬屋の男たちはみな揃いの襟巻きを持っていたのですが、自分だけは持たないと」
 紳士はかすかに笑った。
「ジウラは洗濯場を切り盛りしておりますし、掃除婦たちも相変わらずです。ただ、あなたさまが出てゆかれてからは、自慢のパイを作る甲斐がなくなったと、料理長が寂しそうにしておりましたな」
 シーネイアははにかんだ。彼の気遣いが有り難かった。
「シーネイアさま、わたくしにお話できますことなら何でもお答えいたします。何か、館の誰かに伝言でもございますなら、かならずお伝えいたしましょう。お部屋にお忘れになったものなども、お教えいただければお届けすることもできます」
 彼女は唇を噛んだ。
 誰よりも、話を聞きたい人がいた。
 シーネイアは、その人には、何も言わずにここへ来てしまった。
 けれど、聞いてしまうことはためらわれる。
 もしもマクシミリアンがすっかり自分のことなど忘れてしまっていたら、他の女性を大切にしはじめていたら、自分をひどく恨んで捨鉢になっていたら。すべての可能性がシーネイアを怯えさせた。
 もういいのだ。
 そう思い切ったはずなのに、泣いてしまいそうになる。
 シーネイアはこらえて唇に笑みを浮かべた。
「裁縫の道具を。都の侯爵邸に置いてきてしまいました。それから、毛糸と刺繍糸をいくらか。ブグネルさんの末っ子に、新しい襟巻きを作ってあげたいので。……もしよろしければ、あなたにも」
 紳士はちょっと目を見張った。そしてすぐに目を優しくする。
「もったいないお言葉です。……楽しみにお待ちしております」
 それでは、と言い置いて紳士は立ち上がった。礼をとって立ち去ってゆこうとする。
 申し遅れました、と彼は振り返った。
「わたくしはウォルナードと申します。先代から、侯爵秘書をつとめております」
 真っ直ぐな立ち姿が好ましく思えた。
「ウォルナードさん。ありがとうございます」
 彼は目を細めて、再び礼をとって出ていった。
 シーネイアは、指が針を握る感触を思い出すのに、心地よい懐かしさを覚えていた。目の裏に微笑む乳母の顔が浮かんだ。




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