深淵 The gulf
17






 息を深く吸って、背筋を伸ばす。呼吸を止めて目を閉じる。
「シーネイア様、もう少しお腹に力をおいれくださいまし」
 ブリシカは、背後からおそろしいくらいの力でコルセットの締め紐を引き上げる。けれど、声音はいつもと少しも変わらない。
 寝台の柱につかまり、シーネイアはきつい締め上げに眉を寄せる。
 今から、どれだけの時間これに耐えなくてはいけないのだろう。
 目が眩みそうになりながら、シーネイアは寝台の上を見下ろす。
 そこには夜会服が一式揃えられている。レースと錦糸、それから真珠がふんだんに使われた乳白色のドレス。見たこともないほどのかさのペチコート。宝石類に靴にガーターベルト。小さな寝台いっぱいに広げられている。
 今夜の夜会のためにと言って、国王が用意させた品々だった。
 グラニスは、シーネイアが王宮へやってきてから三月のあいだ、シーネイアが舞踏会や晩餐会、サロンの招待を断り続けているのには干渉しなかった。
 けれど、最後に床をともにした翌朝、彼はブリシカを通じて彼女に命じた。
 一番新しい招待状の夜会に出るように、と。
 シーネイアが指輪を見とがめられた、次の日のことだった。
 それいらい、シーネイアの宮室には毎日のように荷物が運び込まれている。衣装はもちろん、花や菓子もあふれんばかりだった。特に目立ったのは宝石で、指輪は数が多かった。
 シーネイアはため息をつく。
 すると、苦しい胸のあたりがますます痛む。
 シーネイアはいつのまにか数人の侍女たちに取り囲まれて、ペチコートを付けられていた。裾が朝顔の花のように広がるのは最新流行のかたちなのだと、ドレスを仮縫いしてくれた衣装屋が言っていた。襟ぐりは大きく開けて、首から胸にかけてを豊かに、袖は大きく膨らませて腕を細く見せるのだという。
 されるがままになりながら、シーネイアは目を伏せる。
 すばらしい仕立てのドレスだ。生地は限りなく柔らかそうだけれど、まろやかでいて鮮やかに輝いている。刺繍も細かいのに寸分の粗もない。どれだけの人間の手を通してなされた仕事だろうか。そうでなければ、国王陛下のお眼鏡にかなうはずがない。
 こんなところに来なければ、シーネイアは生涯見ることも触れることもなかっただろう。
 ドレスを着付けされている間、シーネイアは、何だか所在なくて顔を上げた。
 居間だけでなく寝室にも日が差している。窓が大きくとられているだけではなくて、壁紙がほどよい明るさの色をしているからだった。やさしい乳白色に、床の深緑色の絨緞がよく似合う。みな国王が手ずから選んだものだと、いつかブリシカが教えてくれた。
 彼は、惜しみなくシーネイアに与えた。
 そして、引き替えにするかのように奪っていく。
 一度も指にはめることのなかった指輪。
 母の形見であって、乳母のそれでもあったもの。いや、それだけではなく。
 情夫に許しでも乞うのかと問いつめた国王の声。
 心を見透かされたかのようだった。
 国王は、ふしだらな女、不義理な女と責めているのだろう。
 手のなかに、小さく冷たい感触がよみがえる。あっけない軽さの、何の変哲もない指輪だった。そんなものにこれまでどれだけ心を委ねきっていたのか、失ってしまってはじめてわかるだなんて。
 目頭が熱くなる。身動きせずにシーネイアは深く息を吐く。
 瞳を閉じた。
 頑是ない幼いころには、絵本で読んだきらきらしいお城の舞踏会を夢見て心を馳せていた。今は亡い父に、連れていってくださいなどと無邪気にお願いしたものだった。
 どうして国王はそんなところに自分を出させようとするのだろう。
 扉が開いて、侍女が一人寝室に入ってきた。
 何事かをブリシカに告げて、ブリシカはうなずく。
「陛下がお見えでございます」
 国王と顔をあわせるのは、あの晩いらいだった。十日もの間、彼は昼も夜も一度たりともシーネイアの部屋を訪れなかった。侍女たちの噂話がシーネイアの耳に届くほどに。
「いま、ここへ……?」
 シーネイアが問い返すと、彼女はそうだと短く答えた。
 この小さな寝室には、これまでグラニスが立ち入ることはなかったのだけれど、その慣行はもはや誰からも忘れられているのだろう。
 国王が入ってくる。大きな体躯、輝くような白金の髪を認めたとき、シーネイアは身を縮めた。侍女たちがさっとシーネイアから離れていく。
「どうだ、具合は」
 やさしげな声だった。彼は余裕のある表情をしていて、口もとに柔らかい笑みを掃いている。
 彼はゆっくりとシーネイアに歩み寄り、あと一歩というところで足を止めた。上から下までシーネイアを眺め、何か思案している。
 しばらくの沈黙のあと、彼は口を開いた。
「よく似合っている」
 シーネイアは目を伏せた。
「やはり、おまえには優しい白がいい」
 グラニスの手が伸びる。
 シーネイアはびくりと肩を揺らした。奪われるように抱かれたあの晩のことを、からだが覚えていた。いけない、と気づいたのは、彼の手がシーネイアの肩の上で握り締められたからだった。
 グラニスは苦い笑みを浮かべていた。そして、シーネイアと目が合うと、もとの表情にもどって自然にシーネイアの肩を抱いた。そのままシーネイアを鏡台の前へ連れてゆき、椅子に掛けさせた。背後からシーネイアの両肩に手を添える。
「ごらん」
 シーネイアは、鏡を見つめた。髪を軽く結い上げただけの、おびえた顔をした女が映っている。見事なドレスだけが輝いてみえた。後ろに立つ男と鏡越しに視線が交わり、彼女はいたたまれなくて目をそらした。
 大きな手が、顎をとらえて彼女の顔を正面に向かせる。
「おまえは美しい。誰にも恥じることはない」
 グラニスの手を、シーネイアは両手で阻もうとした。首を振った。
「おまえはずっと美しくなる。いずれ、着飾る楽しみがわかるようになる」
 彼は身を屈めると、シーネイアの鎖骨のあたりに唇をつけた。
「相応しいものを身に付けなさい。ここでの暮らしに相応しいものを。言っていることは、わかるな?」
 シーネイアは振り返って男の顔を見上げた。
 穏やかな表情のなか、ただ深い青色の目が怜悧に光っている。
「針箱が欲しいそうだな。今度新しいものを届けさせる」
 彼は部屋から出ていた。
 侍女たちが、支度を続けるために静かに部屋に入ってきた。
 シーネイアはくちづけを受けたあたりに手をやった。指輪をかけていた場所だった。





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