深淵 The gulf
18






 明け方に寝室を出たのは、彼の気紛れと言うほかない。
 グラニスは供も付けずに、私室である一角を抜け、回廊に出た。
 季節は秋、たそがれどきから降り始めた雨はまだ止んではいなかった。雨は柔らかく木々を打ち、地面に流れる。空気を満たす水の匂いを感じながら、グラニスは足早に南へ向かう。
 今晩、シーネイアは初めての夜会に出席した。
 さる貴族の夫人が主催する、政治的な偏りのない中規模の舞踏会だった。グラニスは、若い男性と貴婦人が集まるその夜会は、シーネイアのお披露目をするには適当な場所だと判断したのだった。
 彼女は淡い乳白色のドレスを着、髪を結い上げ、滑らかな肌に宝石を飾っていた。今まで見たどの姿よりも美しかった。他のどんな貴族の女にも遜色なかった。
 グラニスはそれが誇らしく、笑ってシーネイアを送り出したのだけれど、意地の悪い、苦い思いを噛んでいたのもまた事実にはちがいなかった。
 侯爵領の館にいたときよりもずっと華やかな宴に出し、麗しい衣装を着せ、まばゆい宝石をまとわせる。いつまでも塞いでいる彼女に貴婦人の、王宮での楽しみを覚えさせてやりたかったのだ。小さな町のささやかなパレードなどではなく、質素な給仕の格好ではなく、ちっぽけな銀の指輪ではなく。
 グラニスは今までそれをほとんど無意識のうちにやっていた。けれども、背後からシーネイアを腕の中にとじこめ、鏡の中におびえた緑色の瞳を見たとき、彼ははじめて残酷な喜びにとらわれたのだった。
 その夜会も終わり、シーネイアは今頃部屋に戻っているだろう。雨のなか馬車で戻るのは大変だったはずだ。疲れきってもう眠っているかも知れないが、どうしても顔を見たくなった。会えなければ、付いていった侍女に話を聞いてもいい。
 それにしても冷える晩だった。グラニスは毛皮のガウンの襟を引き寄せた。
 グラニスはようやくシーネイアの部屋にたどり着き、扉を叩いた。向こうには侍女が不寝番で控えているはずだ。すぐに扉は開いて、燭台を手にした若いふっくらとした顔の侍女が現れた。彼女はねぼけまなこでグラニスを見上げ、しばらくしてはっと居住まいをただす。奥に掛けていたもう一人の、少し年かさの痩せた女も慌てて腰をあげる。
 グラニスは苦笑した。
「あれはもう寝ているか?」
「はい、一刻半ほど前に戻られまして、御入浴なさったあと、すぐにおやすみになりました。冷えますから、どうかお入りになってくださいませ。
 ……陛下、あの、お供の方は……?」
 恐縮した侍女は、声をひそめている。
 控えの間は、暖炉に火こそ入っていないがほの暖かかった。椅子のうえに伏せられた本を見やりながらグラニスは答える。
「いや、付けずにきた」
「まあ、まあ……、そんな……」
 年かさのほうが困ったような顔をした。
「かまわん、すぐ戻るからな。……あれについていった者は、もう下がったか?」
「側仕えを務めました者は、ついさっき宿舎へ下がりました。何か御用が?」
「いや、それならいい。……戻ってきたとき、あれはどんな様子だった?」
 はあ、と若い侍女はおっとりと首をかしげる。年上の方は黙り込んだ。
 やはり、子供のときから彼に仕えてくれているブリシカのようにはうまくいかないものだ。しかしブリシカが選んでここで働かせている以上は、それなりに秀でているのだろうが。
 年上の侍女がおずおずと話だした。
「おでかけになったときより、少し御疲れになっていたように御見受けいたしました。コルセットと履物が苦しそうなご様子で、いつもより長くお湯をお使いになりました」
 若いほうが頷きながら口をひらいた。
「お夜食を準備していたのですが、お召し上がりにはなりませんでした。それから、いつもはおやすみになる前に焚く香を選ぶのですが、今日はもういいからさがってほしいと」
「ふむ」
 グラニスは一度深く頷いた。
「疲れて眠っているのだろう。顔を見て帰る。明かりを少し、分けてくれるか」
 小さな古い燭台を片手に、グラニスは居間へ続く扉を静かに開けた。
 水の香りが鼻をかすめた。
 グラニスは眉をひそめた。奇妙なくらい部屋は涼しい。
 それに、やけに雨音が部屋に響いている。
 グラニスは奥へ足をすすめた。ほの暗さに目が慣れてくる。
 中庭への木戸が開いていた。
 外は秋霖の薔薇の園だ。侍女が開け放したのを忘れでもしたのだろうか。
 扉の側まで来ると、グラニスは目を見張った。
 石畳の向こうの地面、薔薇の低木のそばに、白い長い荷物のようなものが転がっていた。グラニスは、青白い腕と足、それから金茶色の髪を認めた。白いのは寝巻だった。
 グラニスは部屋を飛び出した。
 跪き、ぐったりとしたからだを抱き起こしてやる。
 華奢な全身は冷え切っていた。柔らかく温かいはずの肌は強ばって氷のようだ。
 膝のうえに半身を乗せてやれば、青白い顎が力なくのけぞった。髪も水を吸い、重い綱かなにかのようだった。寝巻はぴったりとからだに張り付き、いくらか透けている。
 まるで死んでしまったかのように閉ざされたまぶた、色をなくした口唇。
 何度か強く揺さぶったが、シーネイアは眉を僅かに寄せただけだった。薄い口唇はなかば開いていた。浅い呼吸がかすかに聞こえた。
 グラニスは彼女を抱えたまま部屋へ駆け戻った。
「誰か! すぐに!」
 慌てて二人の侍女が入ってくる。
 グラニスの腕の中にシーネイアを認め、先に年かさの者が医者を呼んでくると出ていった。ぼうっとしている若いほうに、グラニスは無意識のうちに厳しい声を飛ばしていた。
「ブリシカを叩き起こしてこい。早く!」
 若い侍女は飛び上がるようにして出ていった。
 グラニスは誰もいなくなった居室の長椅子に、濡れたままの彼女を横たえる。重くなった毛皮のガウンを脱ぎ捨てた。
 手近に身体を拭けるものが見つからなかったので、広いほうの寝室へ行って寝床の掛布を剥ぎ取った。それから枕をいくつか取ってきて彼女の身を支えるために使った。長椅子も枕もしばらくは使い物にならないだろう。
 寝巻を脱がせようと手をかけたが、たっぷり水をはらんだ絹は存外に扱いがたく、なかなか容易にはたせない。ようやく脱がせたところでからだを拭いてやり、掛布でくるんでそのまま膝の上で抱いていてやることにした。
 グラニスは絨緞の床に座り込むことになってしまったが、そんなことは気にしてはいられなかった。それに、案外に居心地は悪くはなかった。
 床に座ることも、落ちたものを拾うことも、グラニスはこの部屋で生まれてはじめてしたのだった。ただ、ずぶ濡れの女の世話は、かつて一度だけ経験していた。
 シーネイアの額に張り付いた前髪を後ろへ流してやる。首が冷えるといけないので、うなじにまとわる濡れた一筋ひとすじをすくってはまた流した。
 開かれたままの扉のむこう、雨音はまだやむ気配はない。
 いったいどれくらいあの中にいたというのだろう。
 そのうちに、ばたばたと重なる足音が聞こえた。グラニスは顔をあげる。
「まさか、こんな、なんてこと……」
 ブリシカが、蒼白な顔で立ち尽くしている。その目はシーネイアの真白い顔をただ見つめている。まともに声も出ないらしい。
 彼女は床に崩れかけたが、何とか後ろの侍女に支えられた。
「馬鹿もの、生きているぞ」
 取り乱していたブリシカが、それを聞いてぴくりと反応した。
「いま医者を呼びに人をやった。その前にからだを温めてやりたい。入浴の支度をさせてくれ。他の者には部屋をできるだけ暖めさせろ。狭いほうの寝室がいい、広いほうはすぐには寝かせられんはずだ」
 ブリシカは繰り返し頷くといつもの足取りで人を呼び集めはじめた。
 グラニスは、腕のなかの小さな顔を見つめた。
 右手を白い頬にあてる。
 肌は、グラニスの体温を拒むかのように冷たかった。





「適切な御処置でした」
 小さな寝台のうえのシーネイアを見下ろしながら、典医はグラニスの手際をそう評した。彼は苦笑する。
「適切だった。確かにだ。そなたが呼ばれたことも含めて」
 典医はグラニスの知っている限りの昔から王家に仕えてくれている男である。白い髭をたくわえた温厚そうな爺やだが、腕は確かで、何より口がかたい。
 こんな朝早くに呼び起こして、老体に鞭うつような真似をしてしまった。典医の背中は若者に負けないくらいしゃんとしているのではあったが。
 グラニスはシーネイアの額の手をやった。
 今度はひどい熱だ。なめらかな肌は汗で濡れている。頬はまるで子供のように上気し、赤い口唇から浅い息がくりかえされている。時折いやいやをするように小さく身をよじっては眉を苦しげに寄せる。
「私ももう、九つの子供ではないからな。こんなことは二度目なのだから、学びもする」
 ブリシカが後ろで身を強ばらせたのがわかった。
「陛下……」
「かまわない。知らない者はここにいない」
 事実、シーネイアの寝室にいるこの三人ともが、二十年ちかく昔の出来事にともに関わっていたのだった。一人は同じく医者として、一人は病人の侍女として、最後の一人はその息子として。
「それで、具合はどうなのだ?」
 典医はうなずいた。
「……いま、熱を抑える薬を差し上げたところです。しばらくうなされるやもしれませんが、このまま寝かせてからだを休ませねばなりません。薬を用意いたしましたので、三刻ごとに匙で含ませて服用させてください。
 部屋に火は絶やさないように、暑すぎてもよろしくありません。今の、これくらいの温かさに保ってください。あまりにお苦しいご様子であれば、およびくださればすぐ参りますので」
「篤い病には至らぬか?」
「……再び、このようなことをなさることがなければ」
「無論だ」
 典医はおのれの白髭の顎を撫でた。
 神妙な表情でシーネイアを見下ろしている。
「どうした」
「……お知らせせねばならぬことが、いま一つございます」
 グラニスは眉をあげた。
 典医は視線を迷わせたあと、穏やかな、ごくごく静かな声音で告げた。
「ご懐孕でございます」




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