深淵 The gulf
19






 肌に冷え冷えとした空気が滲みる。
 もっとも、王宮の秋口の風など、雪国で生まれ育ったウォルナードの身にはいささかも堪えない。ただ、この場所は、寒々しいのだ。
 ウォルナードが最後に王宮を訪れてから十日が過ぎる。そのときは、シーネイアに頼まれて彼女の針箱を運んできたのだが、直接に会うことはできなかった。今日は、一昨日に初めて夜会に出席した彼女に話を聞くための、ロレンツに命じられての訪問になる。
 南のシーネイアの部屋へ辿り着いたウォルナードは、年かさの侍女頭によって客室へと迎えられた。何でも、今は国王が室内にいるとかで、面会の許可を取りにゆくと告げられた。
 侍女頭は、いつも温厚な笑みを絶やさない婦人だったが、起居振る舞いに微塵の隙もない。ここに仕えている者はみな男も女も同様に寡黙で、非の打ち所なく教育されているように見える。
 ブレンデン邸の人々に囲まれて育ったシーネイアは、ここで心を許せる相手をもてたのだろうか。無聊な日々を過ごしてはいないか。つらい思いをしてはいないか。
 それはあるいは、彼女が生まれてからの彼の永年の懸念であったのかもしれない。


 久方振りに彼女を見たのは、彼女が十四になったころだった。よたよたと歩いて回る幼子であったものが、いつのまにこれほど美しくなったのかと、彼はたいそう驚いたものである。長じた姿がじゅうぶんに想像できる美貌だった。
 父を亡くしたばかりの彼女に、仮にも兄であるロレンツの態度はあまりにむごかった。冷たく突き放された彼女は、今にも泣き出してしまいそうな顔で客室を出ていった。ウォルナードには彼女にかけてやる言葉などもう他にはなかったのに、追わずにはいられなかった。誰かが彼女を慰めてやらなくてはならないと思ったのである。
 追いかけて、捜し回り、そして、館の裏で立ち尽くすシーネイアを見つけた。
 その傍らに立つ、黒髪の少年をも。
 数年後に再び間近に彼女を見た。シーネイアは、母親の面差しを濃く受け継ぎ、髪と瞳には侯爵家の色彩を有する、ほっそりとした優美な令嬢となっていた。ロレンツが彼女の母のことを想起させられても、少しもおかしくはなかったのだ。
 彼女が、乳母の息子であり今は使用人のひとりである青年と恋仲であることは、既にロレンツの耳に届いていた。ウォルナードは、それをあえて放っておいたロレンツに対して安堵さえ抱いていた。
 国王の滞在中に、ロレンツは毎日のように国王の部屋へ赴いては、二人きりで長く話を続けていた。ウォルナードはそれをカメリアが王妃となるための密議に違いないと考えていた。
 国王が帰っていってから数日したある夜のことだった。ロレンツはカメリアを私室に呼び出したあと、シーネイアを呼び寄せるようウォルナードに命じた。彼は彼女に対して、もう何年も、側に寄ることさえ許していなかったにもかかわらずだ。思えば、もっと早く、自分がその異常に気づくべきだったのだろう。
『陛下がおまえを愛妾に御望みだ』
 彼は、シーネイアとその母を、傍で聞いていていたたまれないほどに罵った。側に控えていたウォルナードは、たまらずにシーネイアを庇った。無礼とは心得ていたが、進みでずにはいられなかった。
『あまりのことでございます! もう一度お考え直しください。陛下も、日を置けばお考え直しくださるやもしれませぬ』
『無駄だ。ああいうときの陛下は、誰の言葉にも耳をお貸しくださらない』
『しかし、むごい仕打ちでございます』
『承知している!』
 ウォルナードは、そのときのロレンツの血走った目を忘れないだろう。灰色混じりの緑色の瞳は高ぶって色を濃くしていた。年を重ねてもなお秀麗な眉をひそめ、苦いものを飲み下したように口唇を歪めていた。
『耄碌したか、ウォルナード』
 押し殺された声だった。
 ロレンツは、ウォルナードの肩越しに、震えているシーネイアを見下ろしていた。
『御所望なのではない。命令なさったのだ。……その娘を部屋まで戻せ』
 彼の声に、ウォルナードは確信した。
 ロレンツは、憎しみにとても近い感情で、この娘を愛している。





 すぐさま侍女頭が客室へと戻ってきた。
 ウォルナードは、そのまま促され、明るい広い部屋へ出た。
 こじんまりとしたサロンといったところだろうか。開け放された窓と戸から中庭がみえる。部屋の左右それぞれの扉はかたく閉ざされていた。長椅子と一組の卓と椅子が据えられていたが、はたして居室には誰もいなかった。
 けげんに思い、ウォルナードは侍女頭を振り返る。
 ウォルナードは背に、扉のゆっくりと開く音を聞いた。侍女頭がウォルナードの向こうに対して深く礼をとる。誰が入ってきたのか理解し、ウォルナードも続いて膝を折る。
「よい、顔を上げろ」
 深い声だ。ウォルナードは面を上げる。
 そこには男が立っている。かがやく白金の髪に深い青色の瞳の偉丈夫、彼をこれほど間近で目にするのはウォルナードにとり初めてのことだった。
 彼は、礼装の上着を取っただけの格好をしている。膨らむ形のタイは抜かれ、ドレスシャツの釦も幾つか外されている。時刻は既に夕方、本来ならば国王は夕餐前の散歩に出ているはずだ。だが、これはまるで、公務が済んでから、着替える間も惜しんでここへやってきたとでもいうような格好ではないか。
「はじめてお目にかかります。陛下におかれましては、ご機嫌うるわしゅう……」
 国王は鷹揚に微笑み、優美な指先で長椅子をさし示す。
「挨拶はよい、そこに掛けよ。ウォルナードといったな、今日はあれに届けものはないのか?」
 ウォルナードは口を引き結ぶ。
 彼は、以前にウォルナードがシーネイアに針箱を運んできたことを与り知っているのだ。
 ふたりは相向かって掛けた。
「本日参上いたしましたのは、わが主人の命をうけてのことでございます。先日ご出席なさった夜会につきまして、お尋ねしたき儀がございますので」
 国王は片眉をあげ、長椅子の背に肩をあずけた。
「それで、ロレンツは何と?」
 低い、なめらかな美声である。それでいて威があり、問いかけられれば答えずにはおれないような心地にさせられた。ロレンツがああ言った理由がわかるような気がした。
「おそれながら、聞くところによれば、お嬢様は夜会の場にお慣れでないご様子であったとのこと、それにつきまして幾つか御忠言を」
「指図しにきたわけだな、次はうまくやれと。あまりに、あれが相応しくない振舞をしたものだから」
 国王の表情に、やゆするような色はない。
 ウォルナードは否定はしなかった。いや、青い目にまっすぐに見据えられては、そのようなことはかなわなかった。
「あれは今、熱を出して床でうなされている。一昨日の晩、夜会から戻ってきたあとだ。庭で雨に打たれていたのを見つけてな」
 ウォルナードは耳を疑った。それを察したのだろう、グラニスは口唇をゆるめて続ける。
「むろん、命に障りなどはない。しかし、目を覚まさないので人をつけて看させている。しかし、どうして、雨になど……」
 国王はため息を吐き、肘掛けにのせた腕に顎を預けた。目を閉じて俯いたあと、身を乗り出してウォルナードをのぞき込んできた。
「お嬢様などとおまえは呼ぶが、あれは、社交はもちろん、われわれの嗜みなど少しも知らぬ女だぞ。ここへ来るまではどんなふうに暮らしていたのだ? あの館には生まれた時からいたのだろう?」
 ウォルナードは口を開くのに峻巡した。
 そんなことはもうとうに調べつくされていることなのだろうに。
「あのお方は……」
 初めて見た彼女は生まれたばかりで、母の腕に抱かれていた。彼は次に、ブレンデン邸の丘を、無邪気に笑いながら駆けおりる幼女の姿を記憶している。そして、憂いを秘めた目をした、大人びた顔の少女を。それから少しも変わらない現在の彼女を。
 ウォルナードは額に手をやった。
「シーネイア様は、館じゅうの者に愛されてお育ちになりました。明るく素直な御気性で、誰とでも別け隔てなく仲良くなさり、庭仕事から馬の世話まで、忌憚もなくよく手伝われていました。毎日を、健康に大切にお過ごしだったものと思います。
 ただ、早くに母君を亡くされ、お父上や他のご家族との触れ合いは少のうございましたので、お寂しかったのやもしれません」
「その、母とは」
 ウォルナードは目を上げる。
「どんな女だった? 身分低い者だったのだろう?」
 ウォルナードの脳裏に、赤子を抱いているやつれた女の姿が浮かぶ。黒い髪に茶色の瞳の、口数のすくない美しい女だった。
「村育ちで、侯爵家に奉公に出てきたのは、確か十五の年だったように思います。控え目で物静かな女でしたが、老いにも若いにも慕われておりました。よく働いて気もつきましたから、すぐに下働きから裁縫の仕事を任されるようになりました」
「それが、亡くなった侯爵の妾に?」
「二十になる前のことでございました」
 ウォルナードは頷いた。
「結婚していなければおかしい年頃ではないか。……恋仲の、男などは」
 国王の目が鋭くなり、すぐにそらされた。
 彼の様子にウォルナードははっとした。まさか、彼は、シーネイアと乳母の息子との間のことに、気づいているのではないか。
 ウォルナードはつとめて平静に答える。
「身寄りのない女でしたので」
 彼は口唇を歪める。
「……まるで同じというわけだ」
 ぽつりと呟いて、国王は席を立つ。
 ウォルナードに背を向け、中庭へ近づく。
 戸枠に手をかけ、肩越しにウォルナードを振り返る。
「そなたは、あれが、人の母になれると思うか?」
 ウォルナードが目を見張り、何事かと問おうとしたときだった。
 左の扉がけたたましく開き、若い侍女が飛び出してきた。
「お目覚めでございます! お気も確かでいらっしゃいます!」
 背後で侍女頭が息を呑んだ。
 そしてウォルナードは、隣室へ向かう国王の姿を見た。
 その横顔がひどく痛ましい陰影をおびていたのは、秋の夕日が強いがためだったか。





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