深淵 The gulf
24





 侍女が手当ての道具を持ってきてくれるのを待って、ふたりは長椅子の端と端に腰掛けている。シーネイアは、卓のうえで放って置かれた夕餐が冷めてゆくのを見つめている。
「この長椅子」
 とグラニスが言いかけたので、シーネイアは彼に顔を向けた。
 深緑色のびろうど張りの長椅子は、ふかふかとして適度に柔らかく、半日座っていても腰の痛まない、たいへんに重宝な家具だった。シーネイアは、最近はもっぱらここで刺繍をしていた。
「以前から置いていたものか?」
「そうだと思います。……どうしてですか?」
「いや、よく手入れしてくれたものだと思ってな」
 グラニスの唇が満足げに微笑んでいる。手触りを確かめるように、何度かてのひらで生地を打っている。シーネイアがもう一度尋ねようとしたとき、侍女が小さな木箱をささげ持ってきた。シーネイアに道具を手渡すと、彼女はそそくさと部屋を退出していった。
 シーネイアは、グラニスの脇に腰掛ける。
 両手で彼の腕を支え、傷口にじっと見入った。
 親指の付け根の近くに、ひとつ、小さく肉の抉れた痕がある。もう血は止まっているようだった。消毒し、綿布を当てて包帯を巻いてゆく。
 彼は、薬が染みるのだろうに、腕に包帯を施されてしまうまで一言も発さずに身動きもとらなかった。
 シーネイアが手を離したとき、彼は小さく呟いた。
「すまんな」
 掠れた、押し殺されたような声だった。
 シーネイアは思わず顔を上げてしまい、グラニスと視線を交わらせてしまった。瞬きを数度繰り返すあいだ、彼の鮮やかな青い瞳から目をそらすことができなかった。
「ロレンツにも」
 彼はふと目を伏せ、声を和らげる。
「幼いとき、ロレンツにもよくこうして怪我の手当てをしてもらった」
 年の離れた異母兄の名前は、それだけでシーネイアを緊張させる。
「おまえは母に生き写しとよく評されるそうだが、私は、ロレンツに似ていると思う。若いときのあれに」
「お若いころのロレンツさまに……?」
「おまえは、滅多に顔なぞ合わせなかったんだったな。ロレンツは、私がむつきもとれぬころから守役として側に仕えてきてくれた。ブリシカに言わせれば、子供が子供の面倒を見ていたも同然だったそうだが」
 幼いグラニスも、少年のころのロレンツも、シーネイアには想像だにできなかった。
「今のあの男を見ても信じられんだろうが、ロレンツは気さくで朗らかで、幼い私から見ても才気溢れる男だった。算術も語学も詩作も堪能で、剣でも馬でも抜きん出ていた。守役になったのは家柄のためだったが、私の後見についたのは父にも母にも気に入られていたからだ」
 グラニスは、包帯の巻かれた手の甲を、左手でそっと撫ぜている。
「それが、私が十になったころだったか、今のように陰気で冷徹な気性になった。務めも社交もこなしながら、心から楽しんでいるようには見えなかった。ちょうど、私の父の薦めで結婚したころで、そうすれば私の側を離れることも増えたし……。昔のように笑ってほしくていろいろと機嫌をとったりしてみたものだが、なにしろ私も、母が入水をはかったばかりでひねくれはじめていたからな」
「今から、十五年くらい前でしょうか」
「十七年かな。……私にも、何があってロレンツがあそこまで変わり果てたかはわからずじまいだ。ロレンツがあの仮面みたいな無表情を崩すのは、私の気ままに困るときだけだ。いつも我慢比べで私に譲るが、甘く見ていると肝を冷やすこともある」
 彼は首をめぐらせて、シーネイアを見下ろす。シーネイアを異母兄と重ねているのだろうか。見つめられていることに耐えられなくて、シーネイアは膝のうえでドレスを掴みしめる。
「おまえはなぜ、ロレンツを兄と呼ばない」
 それは、物心ついたときからの習慣だった。父のほかの侯爵家の人々を、姉とか兄とか呼ばうことはなかった気がする。覚えているのは、母の厳しい叱責だった。
「母に禁じられたからです。あの方の前に出てはいけない、顔を見せてはいけない、と」
「なぜおまえの母はそんなことを?」
 なぜ、どうして、などと訊くのだろうか。答えはわかりきっていることなのに。
「侯爵家の方々と、気安くしてはならないと思ってのことだと思います。父もそのように私たちを遇しましたし、それでよかったのです。わたしは、ほんとうに、あそこで……」
 あの館で生まれ育ってきてよかったのだと思う。そう言おうと思って、憚られた。懐かしい、愛しい故郷。けれど、もう、帰りたいと願うことは許されない。
 口元に手を遣り、指先の震えが止まるのを待った。
「だから、間近でロレンツさまのお顔を拝見したのは、父が亡くなってからだったのです。大奥様とカメリアさまも遠目に見ただけで、ロレンツさまの奥様やご令息がたは、お姿も」
 はじめてカメリアを見たのは、国王を迎えるパレードにおいてだった。
 色とりどりの花に飾られた馬車の上で、グラニスと並び立つ姿は一幅の絵画のように美しかった。マクシミリアンに連れられて上った建物の二階で、馬車を見下ろしながら、シーネイアは父のことを思っていた。高潔な奥方、素晴らしい跡継ぎ息子、そして麗しい娘に恵まれていながら、どうしてシーネイアの母を求めたのだろう、と。
 欲望のためだったのか。
 それとも、過ちを犯して、しかたなくシーネイアを産ませたのだろうか。
 たとえそうだとしても、父はシーネイアを守ってくれたし、ブレンデン邸で豊かに穏やかに暮らさせてくれた。優しく話しかけてくれて、膝のうえに乗せてくれた。死の間際に、シーネイアのために言葉を残してくれた。
「ロレンツさまは、私が母によく似ていると仰いました。どこもかしこもそっくりだと。きっと、本当なのだろうと思います。私がロレンツさまに似ているところがあるなどと、仰せになったのは陛下がはじめてです」
 どうしてこの人は、カメリアという伴侶を持ちながら、シーネイアを側に置くのだろう。考えたくなくて、ずっと目をそらしていた。カメリアやロレンツの名前を聞くことさえ恐ろしかった。
 きっと、グラニスには、気高く美しい妃に対しては向けられないいろいろなものの、はけ口になる女が必要だったのだろう。王宮へきた初めの日の、ブリシカの言葉が脳裏に蘇った。彼の言うとおりにして、彼を慰めればよい。けれど、シーネイアにはそんなことさえ満足に果たせない。
「おかしいな」
 グラニスがぽつりと呟いた。
「私には、ロレンツとおまえの母が、憎みあっているように聞こえる」
 シーネイアにはわからなかった。
 俯いて、ただ黙っていた。
 グラニスの手が伸びてくる。両肩を包まれて、体を向かい合わされた。
「シーネイア、話さなくてはならないことがある」
 彼は唇を微かに開き、躊躇うようにまた閉ざす。
 心を決めたように、シーネイアの目を覗き込んでくる。
「おまえは気づいていないだろうが、典医が、腹に子が居るという」
 シーネイアは目を瞠る。
「成って二月半といったところだそうだ」
「子供……」
 右手を胸のしたに這わせた。膨らみのない平らな腹。
「わからなかったか?」
 頷き、両手を握りこんだ。
 グラニスの厚い胸板を押し返し、シーネイアは首を振った。
 彼が、自分に王太后の話を聞かせたわけが、理解できたのだった。
 シーネイアは故郷に思い人を置いて王宮にやってきて、半年経ってもここでの暮らしに慣れきらない。それどころか、夜会で耳にした罵言にまるで子供のように動揺し、秋の夜の雨に打たれるなどという真似をした。
「あの雨の日から、目を覚ますまで……」
「腹の子も熱に耐えていた」
 シーネイアは顔を手で覆った。
 グラニスは、シーネイアが彼の母のようになると考えているのだろう。シーネイアが、産まれて来る子に彼と同じ思いをさせるだろうと。懸念してグラニスは言うのだ。
 男児であれ女児であれ、妾の子であることには変わりない。不義の子、罪深き結合の果実、そう呼ばれるのだろう。嫡子がいないうちに生まれる私生児が、歓迎されるはずもない。誰よりも、カメリアが許すまい。
「生まれないほうが、幸せでしょうか」
 我知らず、そう唇が零していた。
 グラニスが息を呑んだのに、シーネイアは気づかなかった。
 彼は長椅子から乱暴に立ち上がる。
「ロレンツと、同じことを言うのだな」
 シーネイアは顔を上げた。重い速い足音が遠のいて、扉が閉まる音が聞こえた。














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