深淵 The gulf
25





「生まれないほうが、幸せでしょうか」
 シーネイアが俯いたままそう言った。
 その声は硬く、さきほどまでの優しいほのぼのとした空気を引き裂いて余りあった。
 グラニスは立ち上がっていた。彼女の唇から、こんな言葉を聞きたくはなかったから。
 足早に部屋を出て、扉を閉めた。続きの控えの部屋で、侍女たちが数人とブリシカが待っていた。
 彼女は驚いた様子でグラニスに近づいてくる。よほど荒んだ様子に見えたのか、侍女たちに隣室に下がるよう命じてくれた。
「いかがなさいましたか」
「身ごもっていると伝えた」
 ブリシカが表情を強張らせる。
「……それで、あの方は?」
 グラニスは顎を引き、唇を歪めた。それだけで察せられたのだろう、ブリシカも目を伏せる。
「私だって、考えなしだったわけではないさ」
 子供が出来たと告げて、シーネイアが嬉しがることなど期待はしていなかったし、する資格も自分にはないだろう。ただ、彼女のあの言葉を聞いて、頭を殴られたような心地がしたことも事実だった。
「泣かれるのも、産みたくないと言われるのも覚悟していた。だが、いざとなると恐ろしくなってな、つまらん昔話をしてしまった」
「昔話、ですか?」
 グラニスは、力なく笑って首を振った。
 おのれの両手を見下ろした。右の手には、丁寧に包帯が巻かれている。
 この手で、彼女にさんざんなことをした。好いた男と引き離して、知る者もない王宮に投げ込むようにして閉じ込めた。純潔を奪って、何も知らない体を思うように弄んだ。大切な指輪を取り上げて、嫌がる彼女をねじ伏せて抱いた。愛妾として公の場に引きずり出すようなまねもした。夜会での場で何があったかはわからないが、そのことがこたえていたのだろうと、今は薄々と察せられる。
 ブリシカが、体の前で揃えた両手をぎゅっと握り締める。
「安直に喜ばれるような方ではありません。いろいろと不安なこともおありでしょう」
「いろいろ、な」
 自分は、父の過ちを繰り返している。
 好きな女を妻にさえしなければいいと思っていた。政の駒である王妃になどならなければ、子を産む義務から免れ、おかしな風評に耐える必要もないと。
 愚かなおのれを許しがたく、シーネイアの前で母のことを語りながら、グラニスは薔薇の枝を千切り、握りつぶしていた。
 その手を、彼女はそっと包んでくれた。ひんやりとしたやさしい指で、彼の手の甲を撫ぜてくれた。
 傷口から流れる血を、柔らかな唇で拭ってくれた。
 だから、グラニスには何も考えられなくなってしまったのだろう。
 今まで彼女の前で名さえ呼んだことのなかったロレンツの話をして、グラニスには聞かせたくもないだろうことを話させてしまった。
 声を絞るように彼女は言った。
 子は生まれぬほうが幸福か、と。
 おまえは父と同じことを繰り返しはすまいかと、言外に聞かれたのだと思った。
 答えなくてはならなかった。
 決してそんなことはないと、シーネイアの前に誓ってやらなくてはならなかった。
「かまわなかった。母上と同じでも」
「陛下」
 彼女に愛した男がほかにいても、優しくあってくれれば、子を愛してくれれば。
 既にグラニスは、彼女にいくつもの無理を強いている。だから、彼女から取り上げてしまったものを返さなくてはならないと思った。
 それは、どこかに仕舞いこもうにも失くしてしまいそうに小さなものだった。切ってしまった鎖とともに、いつも絹の布に包んで懐に忍ばせていた。
 ほんとうは、彼女が熱に浮かされながら眠っているあいだに返してやるべきだったのかもしれない。目覚めたときでも遅くはなかったかもしれない。
「そう思っていたのにな」
 けれど、戻してやれなかったおのれは、所詮は欲深だったのだろう。
 信じてもらえないことが耐えがたかった。
 ロレンツが吐いたのと同じ言葉を、シーネイアの口から聞きたくなかった。
 グラニスは顔を上げ、右の拳を握りこんだ。
「シーネイアに食事の続きをさせてやってくれ。しばらく落ち着かぬかもしれんが、頼む。それから、長椅子を手入れしてくれた者に、礼を言っておいてくれ」
 廊下に出ようとしたところで、思い出したことがあってブリシカを振り返った。
「秘書の持ってきた針箱を、返してやってくれないか」
 それだけを頼んで、もの言いたげなブリシカを置いて扉を閉めた。 






 しばらく、シーネイアは立ち上がることができなかった。
 手足に力がはいらない。まるで痺れたようにいうことをきかないのだった。
 少しずつ手を動かして、腹のうえに遣った。冷たい下腹にコルセットをつけなくなったのはいつからだったか。病み上がりの身には必要ないと思われたのだと気にも留めなかったが、今更ながらに、そういうことだったのだと合点がいった。
 いつのまにか、傍らに若い侍女が立っていた。顔をあげると、彼女の心配そうな表情が目に入る。
「シーネイアさま」
 長椅子にかけたままのシーネイアを、腰をかがめて覗き込んでくる。
「ご夕食を、お召し上がりになりますか? 飲みものを先にご用意しましょうか?」
 彼女たちが、しきりにものを食べろと勧めるのは、シーネイアが身篭っているからだ。重いものを運ぶなというのも、腹の子に悪いかもしれないからだ。
 シーネイアは彼女の目を見つめた。
「どうして、よくしてくださるの?」
 シーネイアの問いに、侍女はきょとんとした。
「よくするとは、どういう意味でしょう?」
 シーネイアは恥じ入って俯いた。
「……お食事をすすめてくれたり、……食べたら喜んでくれたりすること。お腹のこどもにいいように、いろいろしてくださること」
「どうして、そのようなことをお気になさるのです?」
「だって、陛下の……」
 シーネイアは目を伏せたまま、言いよどむ。
「お腹のこどもは、陛下の私生児になるでしょう? 生まれれば、困るでしょう?」
 侍女が小さく息を呑んだのがわかる。
 侍女は屈んだ姿勢のまま、両手を広げてシーネイアの肩に伸ばした。触れる前にその手は止まって、ゆっくりと戻された。
「あの、あたくしでは、お答えするに力不足かもしれません。ちょっとお待ちくださいませね、ほんとうにすぐですから」
 侍女は足早に出て行って、入れ替わりにブリシカが入ってきた。
「侍女が、泣きそうな顔をしておりましたよ」
 シーネイアは俯いた。
「あの若い娘が、なにか無礼を申しましたか?」
 シーネイアは首を振った。
「ちがいます。私が困らせてしまったのです」
「なんと仰ったか、わたくしにも、お聞かせくださいますか」
 ブリシカは、何を思ったか、シーネイアの足元に跪いて顔を覗き込んできた。疲れたような皺をきざんだ顔が近くになって、シーネイアは戸惑ってしまう。
 ブリシカはいつも、穏やかな微笑みを崩さない。シーネイアはそれがうすら怖かった。けれども、今日は、違っているように思えた。
「どうして、お腹のこどもによくしてくださるのかと、お聞きしました。生まれたら、陛下の私生児になってしまうのに」
 シーネイアは膝の上で拳をにぎった。
「それに、私はきっと王太后陛下のようになってしまいます。陛下も、私がこどもに陛下と同じ思いをさせてしまうとお思いです。だから」
 ブリシカが、シーネイアの言葉を遮った。
「陛下はシーネイアさまに、アトリーさまのお話を?」
 シーネイアは、聞きなれない名に首を傾げた。ブリシカは静かな口調で説明する。
「アトライン王太后、陛下のお母君の名前です。陛下がお話しになったのですね? ……アトリーさまが入水をはかられたこと」
 シーネイアが頷くと、ブリシカも一度深く首肯した。
「お話しするのは初めてになりますが、わたくしは、アトリーさまがこちらに嫁がれたときから、陛下が即位なされるまでお傍にお仕えしておりました。アトリーさまが避暑地で湖に入られたときも、ご家族にお供しておりました。……あのときのことは、忘れようにもかないません」
 ブリシカは瞳を瞬かせ、ふと目をそらした。
「お休みになるまえの祈祷の時間でしたか、わたくしたちがお側を離れた合間に庭園に出られ、湖に入られたそうでございます。初めに気づかれたのは九つのグラニスさまで、止めようとした者たちを振り切って、泣きながらお母上をお助けしようとなされて。……思い出すと今でも寒気がいたします」
 シーネイアは、ただ彼女を見下ろしていることしかできなかった。
 開け放したままの扉から、冷たい夜気がしのびこんでくる。
 虫の音がかすかに耳をくすぐった。
「ですから、びしょ濡れのあなたさまを見たときは、しばらくものを考えることもできませんで、呆けておりました。そうすれば、陛下が、『馬鹿者、生きているぞ』と」
 ブリシカは苦笑する。
「陛下が?」
 シーネイアが問うと、ブリシカは意外そうに目を見開いた。
「この長椅子のこと、陛下が何かおっしゃったでしょう」
 そう言って、ブリシカは長椅子の深緑色のびろうどに触れる。 
「……もともとここに置いていた物か、よく手入れしてくれた、と。私には、わからなかったのですが」
「いっときは、もう使い物にならないかもしれないと諦めた品だったのです。ひどく水に濡らして、クッションもへこたれてしまって。陛下がなさったのですが」
「水に、濡れて?」
「あなたさまが中庭でお倒れになっていたのを見つけて、手当てなされたのは陛下です。夜会での様子をお尋ねにたまたまいらしたそうでしたが、わたくしが参じましたころには、この長椅子のそばで、しっかとあなたさまを抱き留めていらっしゃいました。お目覚めになるまでも、毎日夕べの散歩のお時間に、侍従たちの目を盗んではこちらにいらして、おそばにつかれて」
 シーネイアは恥じ入って俯いた。
 そんなことは彼はおくびにも出さなかったし、シーネイアも知ろうともしなかった。誰が雨のなか自分を助けてくれたのか、どうして目を覚ましたときグラニスが近くにいたのか、思い至りもしなかった。
「確かに陛下は、アトリーさまとあなたさまを重ねてご覧になっているかもしれません。けれども、陛下が御子をお望みでないなどとは、決してお思いにならないでくださいませ。……陛下は、御懐妊がわかったあと、決してこのことは口外せず、あなたさまの静穏なお暮らしを何よりも重んじよと、こちらに詰める者みなにお命じになったのですよ」
 ブリシカの顔を見下ろした。
 常の張り付いたような微笑は消えうせて、その目には悲哀の色が浮かんでいた。
「何を今更と、お思いになるやもしれませんが」
 ブリシカは、膝の上で揃えたシーネイアの両手に手を重ねた。驚いたシーネイアに気づいたのだろうに、彼女は知らない振りをする。
「陛下から、傍付きを離れてこちらに伺候するよう言い付かりましたときは、また陛下の気紛れが始まったのだとしか考えなかったのです。それに、陛下のお傍に仕えよとは、陛下が即位なされたときにアトリーさまがわたくしにくださった大切なお言葉でございましたから。わたくしは、お母君とご子息と、おふたりにお仕えしてのべて三十余年になります。陛下のために、シーネイアさまにはご愛妾としてのお勤めを果たしていただかねばと思い、そのようにわたくしもお仕えしました。ですが、陛下はこちらにいらした帰りにはいつも荒んだご様子に見え、わたくしも、ここな者たちも困惑いたしました」
 シーネイアは頷いた。
 自分がグラニスを慰められなかったから、ブリシカも他の侍従たちも迷惑を被っていたのだ。
「あの夜会の晩、陛下の腕の中のあなたさまが、わたくしにはアトリーさまに見えたのです。足元が抜ける心地がいたしました。わたくしは、またあるじに同じことをさせてしまったのかと」
 ブリシカはシーネイアの手を優しく握った。
「けれど、陛下は決してわたくしたちをお責めになりませんでした。さきほども、あなたさまの世話を頼む、長椅子の手入れをした侍女たちに礼を言ってくれと、そうおっしゃって出て行かれたのです」
 胸が痛くなって、シーネイアは目を瞑った。
「シーネイアさまに不安がおありだということはお察しします。ほんの少しでも、誰にでもかまいませんから、お話くださいませんか。じっとお一人で堪えられるよりは、さっきのように愚痴のひとつでも零されたほうが、お気持ちが楽にはなりませんか」
「……でも、ご迷惑をおかけしたくはありません」
「みな、このような務めには慣れています。ご心配には及びません」
 危なっかしく見えるのもおりましょうが、とブリシカは付け加えた。
「ご信用いただけないだろうとは承知しております。わたくしたちの一義は陛下のお言葉、これまでそのように務めてまいりました。下賎なまねもいたしました。弁解のしようもございません」
 ブリシカは口元を引き締める。
「けれど、陛下があなたさまの御身と御心を第一にせよとお命じになったからには、たとえ陛下ご自身であろうと、あだなすならば阻みます」
 そして、彼女は立ち上がってドレスの膝を払い、頭を下げた。
「差し出たことを申し上げました。ご不快に思われたならば、お許しください」
「いいえ」
 シーネイアは目を伏せて、微笑んだ。
 ブリシカの心はずっと、王太后のそばにある。
 王太后に心から信頼されてグラニスの傍に仕え、彼のためにシーネイアに傅く。それは欺瞞ではなく、義務でもない。シーネイアは自分に、そうしてもらう価値があるとは思えない。でも、シーネイアの手を握ってくれたブリシカの手は、とても優しかった。
「私は、ブリシカさんが聞きたくないようなことを、話してしまうかもしれません」
「お話しいただけるなら、どのようなことでも」
「陛下のお心に背くようなことでも?」
「シーネイアさまが望まれない限り、陛下にお伝えすることはありません」
 シーネイアは、小さく安堵の吐息をついた。
 顔を上げて、まっすぐにブリシカの顔を見上げた。
「私も」
 震える唇を噛み締める。
「私も、ふさわしくいられるように務めます」
 そう言うと、彼女は深く頷いてくれた。 
「お子が健やかにお育ちになったあかつきには、お仕えさせていただきとうございますね。それまでわたくしが壮健でいられればの話ですけれど」
 シーネイアは目を見開いた。
 このときはじめてシーネイアは、おのれが赤子を産んで、その子が大きく育つということを考えたのだった。
 ブリシカは食卓に近づくと、一枚の皿を持ち上げた。
「だいぶ先のことになりましょうね。陛下からも目が離せませんもの」
 首を傾げるシーネイアに、ブリシカは、林檎が一切れだけ残った破璃の皿を示した。
 













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