深淵 The gulf
番外編 小夜風










『手を握っていてね、お願い、ずっと』
 薔薇の花弁のように可憐だった唇は、乾いて白くひび割れていた。
 弱々しく掠れた声が、頑是ない子供のようにブリシカに懇願する。
 彼女はつい先刻、この上ない高貴な務めを終え、白い寝床にその華奢な体を埋めていた。
 薄暗い寝室の中には、ブリシカのほかに、彼女の側に控えるものもいなかった。
 扉の外、遠くに歓声が聞こえた。
 重なった足音がだんだんと離れていって、やがて届かなくなった。
『少し疲れてしまったの、眠ってもいいかしら……』
 ブリシカが頷けば、彼女は心底安堵したようにその青い目をゆっくり閉じた。
『目が覚めたら、私の赤ちゃんに会いたいわ……』
 また強く頷いて、ブリシカは彼女の骨ほそい手を握る指に力をこめた。
 あれはもう遠い昔のできごとだ。そのはずなのに、昨晩のことのように思い出せるのはなぜなのか。
 アトラインは二十三歳だった。
 まるで時を止めてしまったかのように、あの晩を境に、彼女の心と体とは癒えることをやめてしまったのだった。











 国王の婚約は突然だった。
 ブリシカのように王宮に仕える者にとっても、貴族にとっても、誰より国王自身にとってもそうだった。
 南方の伯爵家の、さらに分家の令嬢というだけでも異例の相手であったのに、既に伯爵家の跡継ぎである子爵と婚約までしていたという。国王が彼女を見初めたのは伯爵の主催する夜会でのことで、その次の日には国王が彼女と子爵の婚約を解消させていたという。
 若く壮健な国王には、数え切れないほどのお妃候補があった。また、漁色家としても悪名高く、貴族の夫人をはじめ、女官や城下の商家の後家とも噂があった。
 しかし、二十五になるまで結婚を渋っていた彼が妻を娶ることになったとしても、それが爵位もない家の令嬢になろうとは、誰も考えもしなかったのである。
 ブリシカの周囲の人々の言はさまざまだった。爵位持ちの名家出身の女官は、身分が違うとあからさまに眉を顰めた。国王と関係をもっていた女官の中には、歯噛みして悔しがる者もあったが、静かに王宮を去っていった者がほとんどだった。まるで絵物語のようだと目を輝かせる者もいた。
 最も多くを占めていたのは、後ろ盾のないうら若い妃の人となりを知らず、彼女をどのように迎え入れるべきなのかと戸惑う者たちだった。もちろんブリシカもそのうちの一人だった。
 その婚約発表からちょうど半年後、国王がまだ稚い花嫁を娶った。
 ブリシカが初めて間近に王妃の姿を見たのは、婚儀の翌朝のことだった。ブリシカは寝室付きの雑用係として王妃に仕えることになっていた。他の女官と揃いの真新しいお仕着せに身を包み、緊張しながら寝室に入った。昨晩は使われなかった王妃の寝台の、リネン類を替えるためだった。主人の目にはいらぬよう、まるでいないように振舞わねばならなかった。
 そのはずだったのに、鏡台に座る王妃に、唐突に声をかけられたのだった。
「ねえ、あなた、こっちに来て」
 年配の女官は、髪を結う支度をやめ、ぎょっとしていた。
 ブリシカも、何が起こったのか判らずに、振り返るだけで精一杯だった。
 真白い寝巻に身を包み、椅子の背もたれにしなだれかかり、アトラインは不安そうにブリシカを見つめていた。
 朝の光を透かすような白金の髪が腰まで流れ落ち、冴えた青い目はブリシカの知らない南の海を思わせた。何よりその唇が美しかった。紅も塗っていないのに、珊瑚色に照り、誘うように艶かしかった。
 飾り立てられた花嫁姿よりも、髪も結わないしどけない格好でいるほうが、ブリシカの目には輝いて見えた。触れることをためらうくらい神々しかったのに、どこか怯えているようで、それがどうしてか胸を締め付けた。
「こっちに来て。髪を結ってちょうだい」
 この世のものとも思われない、甘美で優しい声だった。
 聞きほれて呆然としていたブリシカは、苦々しげな表情を隠しもしない年上の女官に小突かれ、場所を譲られた。他の女官たちが呆れて控えの間に引いていき、やがて寝室に二人きりになった。
 洗いたてのリネンを抱えたままのブリシカを側に呼び寄せ、アトラインは小首を傾げた。
「あなたの名前は? 年は?」
 ブリシカは、彼女の真っ青な目が、微笑みながらも泣き通したように赤くはれていることに気がついた。
 気がついたが、何も言えなかった。そのかわり、背筋を伸ばし、顎を引いて、彼女の問いに答えた。
「ブリシカと申します。年は、妃殿下と同じ十六にございます」










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