深淵 The gulf
番外編 小夜風










 うら若い王妃への国王の傾倒ぶりは、常軌を逸していた。
 誰もが国王陛下はお人が変わったようだと囁きあった。
 それまで毎晩のようにふらふらと数多の貴婦人たちの寝室を行き交っていたのが、ぱたりと女遊びをやめた。晩餐会や夜会のない日の夕食は必ずアトラインとともに採り、そのまま寝室に入るまで彼女を放さなかった。
 アトラインは、床を共にした翌朝に、国王の寝室から自室に帰り着く。夫妻の寝室は隠し通路で繋がっていて、扉の鍵を持っているのは夫妻と女官長だけだった。
 アトラインは自室で身支度を整え、すぐに朝食の席へ向かう。
 それまでのほんの半刻ほどが、アトラインとブリシカの語り合う時間だった。
 二人きりで、他愛ないことばかり話した。
 アトラインの生まれ故郷のこと。
 生まれ育ったのは、海辺の小さな古い館であったこと。窓の数の多い邸宅で、日中の館の中は屋外のように明るかったこと。
 兄弟、妹たちとしょっちゅう裸足で砂浜を駆け回っていたこと。夏に日焼けした肌が白く戻るまえにまた夏が来ること。
 刺繍や詩作より乗馬や水泳が好きだったこと。父母も笑ってそれを許してくれていたこと。
 ブリシカが、爵位こそあれ貧しい家に生まれて、食い扶持稼ぎのために王宮に奉公に出されたこと。仕送りだけは続けているが、十四の年から家には帰っていないこと。
 アトラインは聡明な女性だった。確かに、決して都風の貴婦人とはいえなかった。けれども、大人しげな美貌の下に、溢れんばかりの才気と明るさを秘めていた。だから、飾り立てられた姿よりも、ありのままのアトラインのほうがブリシカにとって好ましく思えたのだった。
 しかし、日を重ねるごとに、アトラインの顔に浮かぶ疲れは濃くなっていた。
 昼には慣れない公務をこなし、夜には国王と閨で過ごして、眠る暇もろくにないようだった。
 心労のためか、朗らかだったアトラインはだんだんと寡黙になり、ブリシカにおしゃべりをねだるようになった。ブリシカの話を聞きながらうとうとと居眠りをすることも珍しくなかった。
 心酔するあるじが国王から無二の寵愛を受けていることは、ブリシカの誇りだった。ブリシカ自身は国王と対面したことはなかったが、彼の偏愛ぶりが度を越していることは容易に知れた。婚約をしたとたんの国王の変貌も不可解に思えた。思えば、そのときから不審な点の多い夫妻の関係ではあったのだ。
 そして、ブリシカはぞっとするような事実に気がついた。
 アトラインは、ちっとも幸福そうではなかったのだ。嫁いできた日からこれまでずっと。
 ブリシカは、ある朝、鏡台の前でとうとう口にしてしまった。
「妃殿下は、陛下のことをどのようにお思いなのですか」
 アトラインは鏡越しに、隈の浮かぶ目元を緩めて見せた。
「……どのように、だなんて」
 彼女はぽつりと言った。
「私がどう思っていたとしても、あの方は露ほども気になさらない」
 アトラインは遠い目をしていた。その凄みのある美しさに、ブリシカは寒気さえ覚えた。
「でも、陛下は妃殿下のことを、何より大事になさっていらっしゃいます」
 アトラインは小さく首を振った。朝寝髪がはらはらと肩から零れ、白く輝いた。
「ブリシカにはそう見えるの?」
 そうではないのなら何だというのか、彼女は口にしなかった。
 鋭利な沈黙がブリシカの問いを許さなかった。
 けれども、すぐにその真相は知れたのだった。











 成婚から一年後の、ある夜会の晩だった。
 アトラインは、寝室に帰り着くなり、控えていた女官たちをブリシカを残して下がらせた。
 ふたりきりになったあと、アトラインは鏡台の椅子にすがりつき、床にくず折れるように座り込んでしまった。豪奢な夜会服に埋もれるように、彼女は小さな半身を震わせていた。
 ブリシカはそっと彼女に歩み寄り、その薄い肩に手をかけた。
「妃殿下?」
 アトラインは答えなかった。
「妃殿下、お加減が悪いのですか? どこか――」
「いや」
 アトラインは手袋をつけたままの手で顔を覆った。
「違う、ブリシカ」
 アトラインは、声を殺して泣いていた。
「アトリーよ。アトリーと呼んで、お願い」
 彼女の愛称だった。ただ、王宮に来てからは呼ぶ者がいなくなったというだけの。
 ブリシカは戸惑いつつ、おそるおそる口にした。
「アトリー妃殿下?」
「違う、ただのアトリーよ」
「……アトリーさま?」
 そう呼んでやると、アトラインは力なくブリシカに縋りついてきた。
「アトリーさま、いかがなさいました?」
「あの人が、あの人がいたの」
 誰のことを指しているのかはわかった。彼女の婚約者であった、伯爵家の跡継ぎの青年のことだった。
 彼女は時折、家族のことに織り交ぜて、遠縁の青年との思い出を語ってくれた。五つばかり年上の、穏やかで優しい人だったと。小さなころから一緒にいて、兄のように慕っていたと。決して名指しすることなく、いつも何気ないふうで話していたが、彼女が彼をどう思っていたのか察することはたやすかった。
「あの人がいたの……、隣に……奥様を連れて……」
 彼女の声は途切れて、やがて嗚咽に変わった。
 しばらくのあいだ、アトラインはブリシカの腕の中で泣いていた。ブリシカのお仕着せの胸の辺りが涙でぬれてしまったころ、アトラインは毒を吐き出すように訥々と話し始めた。
 一年と半年前の出来事を。










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