深淵 The gulf
番外編 小夜風










 十五歳の秋のことだった。アトラインは結婚を半年後に控えていた。
 婚約者は、家族同然に交流のあった伯爵家の長男だった。生まれたときから決まっていた結婚だった。
 国王が伯爵のもとを訪れたとき、アトラインは、舞踏会の場で子爵の婚約者として国王に紹介された。社交界へのデビューもままならないアトラインにとり、非公式とはいえ国王にお目見えすることは初めての晴れ舞台だった。
 国王は、アトラインが噂に聞いていたよりもずっと親しみやすい印象の男性だった。
 彼の傲慢で我儘な性質、色好みを極めた行状の数々は、南の辺境まで広く聞こえていたからだった。有能だがそのぶん私生活が不品行、というのが伯爵の言だった。
 国王は、まともに会話もできないアトラインを気遣い、柔和に話しかけてくれ、円舞を申し込んでくれた。
 恥ずかしさと恐れ多さに終始俯いていたアトラインは、国王がじっと自分から視線をはずさないのは、自分の顔に浮かんだ濃いそばかすのせいだと思っていた。あるいは自分のステップが間違っているとか、都の貴婦人と比べて洗練されていないのかもしれないとか、そんなことばかり考えていた。
 夜会の次の日、慣れない夜更かしに疲れ、アトラインは昼近くまで床から出られなかった。目を覚ましたのは、侍女が寝室に忍び入ってきたからだった。差し出されたのは一枚の書状だった。伯爵家の使者が、直接にアトラインに渡して欲しいと差し込んだ密書なのだという。
 愚息との婚約について大切な話があるので、我が屋敷まで来て欲しい。たったそれだけが書かれていた。
 末尾には伯爵の署名があった。孫娘のように可愛がってくれ、早く嫁いでおいでと優しく言ってくれた、アトラインがいつか父と呼ぶのだと思っていた男の名が。
 何か普通でないことが起こっているのだと、アトラインはぼんやりとだが感じ取っていた。
 アトラインは、身支度もそこそこに、館から馬車を出して伯爵邸に向かった。
 しかし、伯爵邸で彼女を迎えたのは、そこに滞在している国王その人だった。
 アトラインは、顔見知りの女中に子爵はどこかと尋ねた。
 女中の言葉を遮ったのは国王だった。
「何があったのかは存じ上げないが、掛けてはいかがか?」
 客間の高い天窓から、陽光が燦燦と注いでいた。美しい調度の並んだ見慣れた部屋のなかで、ただ、目の前にいる男だけが違っていた。国王はごくごく丁寧に挨拶をし、昨日の舞踏会が続いているかのようにアトラインに対して接した。
 アトラインは毒気を抜かれ、彼の向いに腰掛けてしまった。
 いつまで待っても伯爵と婚約者は現れなかった。
 さすがに不思議に思い、誰かに声をかけようと後ろを振り返ったとき、部屋に国王と二人きりにされていることに気がついた。いつの間にか国王が人払いをしていたのだった。
 呼び鈴に伸ばしかけたアトラインの手を、国王がおもむろに掴み取った。
 卓越しに引き寄せられ、思わず男の顔を見上げた。
 精悍な美貌のなか、深い色の目が満足げに微笑んでいた。獲物をいたぶるけものの目だった。
 男の顔が近づいてきて、アトラインは思わず顔を背けた。腰に回った手が、アトラインの見えない場所で呼び鈴をつまみ上げ、床に放った。
 顔を掬い上げられるようにくちづけられたのは、ちりん、と澄んだ音が聞こえた瞬間だった。
 すぐにアトラインの背後で扉が開いた。小さな悲鳴があがった。
 見られたのだと気づいたときには遅かった。アトラインの体は、卓に寄りかかるように、国王に向かって投げ出されていた。自ら深いくちづけを求めていたのだと、そう見られてもおかしくない姿勢だった。
 婚約者とは、唇すら契ったことはなかったというのに。
「すまないが、しばらく離れていてくれ」
 国王はアトラインの肩越しに、女中に向かってそう言った。慌しく女中が出て行く気配がした。
 アトラインは立ち上がって追いかけようとしたが、今度は引きちぎらんばかりの勢いで腕を取られた。
「お離しください、何を……」
 背後から抱きしめられ、アトラインはもがいた。しかし、アトラインは非力だった。
「離してください、お許しください! どうして」
 国王の腕がアトラインの腰に回った。
「あなたがほしい」
 男の声は平穏だった。それがアトラインを怯えさせた。顔を青ざめさせるアトラインに、男はいたずらの露見した子供が悪びれもしないのと同じように、軽やかに語った。
「伯爵の名であなたの家に書状が行ったはずだ。私が書かせたものだが」
「何をおしゃっているのかわかりません……」
「まずは婚約を解消していただくのが筋だと思ったまで。ただ、伯爵はあなたをここへ呼びつけることだけは息子に話さなかったようだ。子爵は今頃あなたの家にいるはずだ」
 すれ違ってしまったわけだ、と国王は笑った。
 しばらく、アトラインは彼の腕の中で呆然としていた。自分の与り知らないところで何が起ころうとしているのか、受け止めて解するのに時間がかかった。
 正気にかえったアトラインは、つとめて平静に彼から身を離した。
「国王陛下、これは何かの間違いです。私は、来年の春にこちらに嫁ぐことになっているのです」
「その約束は、反故にされた。今朝」
「だって、私は陛下とお会いしてまだ――」
「まだ私たちのあいだには何もない。でも、これから、互いに全てを知ることになる」
 国王は、言うなり、アトラインを抱き寄せた。アトラインは、萎える手足で必死に暴れた。抵抗をたやすく封じ込められ、いつのまにか彼の体の下に組み敷かれていた。
 浅い呼吸を繰り返しながら、アトラインは抗うことをやめなかった。ドレスの裾が乱れるのもかまわず、逃れようと身を捩って床に這い蹲った。
 その背に覆いかぶさり、耳元に唇を寄せて、国王は囁いた。
「あの女中は、喋るだろうか?」
 男の声は笑っていた。アトラインの頬を大きな手が優しく撫でる。唇に触れ、しきりにそこをなぞる。
「そうでなくとも、この館の者たちは何と思うだろう。私たちが二人きりでいたあいだのことを」
「伯爵家の方は、そんな下種なかんぐりはなさいません!」
 絨毯を掴み締めるアトラインの手の甲に、男の手が重なった。男のドレスシャツの袖がふわりと手首にかかった。レースの柔らかい感触が、ひどく不快だった。
「あんなに大仰な訪れかたをしたのだ、あなたが来たことはみなが知っている」
 男がどんな顔をしているのか、見えないことが恐ろしかった。
「私は子供のころからこちらに出入りしているのです。結婚式だって、ここで……」
「随分信頼しているようだ。だが、はったりは見抜かれるとしても、事実なら?」
 アトラインの手にするりと白いものが巻きつけられた。彼の首から抜かれたタイだった。
「伯爵は、娘のように思うあなたの幸福を望んでいる。わかるだろう?」
 手首を戒められ、脛のうえに膝を乗せられ、身じろぎすらできなくなった。
 罠にかけられたのだと、気づいたときには遅かった。
 そのあと、アトラインは国王の前で、早馬で帰りついた子爵と引き会わされた。髪と衣装を整え、つとめて平静に長椅子に掛けていたが、アトラインの身に何が起こったのか、子爵はおそらく気づいていただろう。子爵はそれをアトラインの裏切りととっただろう。
 誰に何を訴えても、甲斐はないように思えた。国王が口にした子爵への詫びの言葉、伯爵へのねぎらい、アトラインへの優しい気遣い。すべてが嘘偽りだと声をあげたところで、アトラインの純潔が奪われたというただ一点において、事実は変わらなかった。
 何も考えることができないまま、アトラインは自宅に送り届けられた。
 寝台の中で寝もやらず泣き通し、夜が明けた。
 朝一番に、国王がみずからアトラインの父に会いにやってきた。
 父は恐れおののきながら求婚を承諾し、アトラインは半年後に国王に嫁ぐことが決まった。
 既に身を汚されたアトラインにとって、それ以外の将来はありえなかった。
 子爵の結婚相手に、アトラインと同い年の令嬢が宛がわれたと知ったのは、それからすぐのことだった。










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