深淵 The gulf
番外編 小夜風





 難産だった。出産は二日にわたった。
 侍女も女官も、眠る間もなくアトラインの寝室に詰めていた。
 誰より忙しない様子だったのは、赤子の父親である国王だった。彼は、まる二日のあいだ執務も放り出してアトラインの側にいて彼女を励ました。
 はげしい陣痛に耐え、アトラインは男の子を産んだ。
 小さな赤子は、乳母と子守たちの四人がかりで産湯を使われ、身を清められた。
 おくるみからのぞく小さな頭を見て、ブリシカは目を細めた。
 赤子は、透明にも見えるような美しい金色の頭髪をしていた。
 国王は乳母からその子を手渡され、不器用な手つきでその腕に抱えあげた。
 その顔がひどくこわばっているのに、ブリシカは気がついた。国王はすぐに侍従や貴族たちに取り囲まれ、次々に祝いの言葉を受けた。国王は一瞬の無表情が嘘であったかのように彼らに対してにこやかに接し、赤子を抱きながら嗤って見せていた。
 ブリシカにはじっとその様子を見つめていることしかできなかった。
 アトラインは、暗い寝台のなかで後産を待っていた。そのあいだに、乳母が最初の乳を含ませるため、赤子とともに隣室に移っていった。
 ブリシカはアトラインに付き添った。後産のあと、典医たちは控えの間に下がっていき、部屋にはブリシカとアトラインがふたりきりで残された。
「やっぱり、男の子だったのね」
 アトラインは力なく囁き、乾いた唇に笑みを浮かべた。
「陛下は、抱いてくださっていた? 赤ちゃんの顔を見て、何ておっしゃっていた?」
 か細い手が震えながら持ち上がり、何かを求めて空をさまよう。ブリシカは思わずその手を握ってしまっていた。二十三歳のアトラインが、あの十六の日の彼女と重なって見えたのだ。
「ううん、会ってお聞きすればいいわ、いつでもお話しできるわ……」
 何度も小さく頷いて、お腹に左手を這わせた。
「ブリシカ、眠ってしまうまででいいの、手を握っていてね」
 白い指が、弱弱しくブリシカの手を掴み返してくる。
 その、子供のような頼りなさ。
「お願い。ずっと」
 ブリシカが手を放したら、アトラインは泡のように消えてしまうのではないか。ブリシカは夜の闇のなかで、そんなことまで考えてしまった。そしてその直感は、あながち違ってもいなかった。
 しかし、ブリシカは、自分でそう思っているよりも、随分と無力な女だったのだ。
 おのれの思い上がりを、ブリシカは十年近くののちに思い知ることになる。








 男の子はグラニスと名付けられた。祖父にあたる先代から頂いた名付けだった。
 王子を迎えた王宮は、ひといきに華やいでいった。
 アトラインが幸福な王妃、とのあざなで呼ばれ始めたのもこのころだった。
 乳母と老練の子守が併せて四人、常に王子の側に付き添った。
 アトラインは産後の肥立ちが優れなかった。
 一日に一度子供に会えるか会えないかの暮らしが続いた。産褥の床から回復したあと、アトラインは公務に忙殺されながら子供との時間をもった。
 朝はこれまで以上に早く目覚め、寝む前にはどんなに遅くなっても王子の部屋に会いに行った。アトラインは眠っているグラニスを抱き上げ、一日中でも頬ずりしていたいとブリシカに洩らした。
 彼女はそんなことはできないと知っていただろうし、おのれに許すこともなかったが、それだけにその言葉は切なかった。
 不思議なことに、アトラインに対する国王の態度は、王子が生まれる前と後で少しも変わらなかった。むしろ、アトラインに子供を産ませたいという思いがいっそう強くなったようだった。結婚当初のように毎晩のように床を共にしたし、子供に会いに行こうと寝室を抜け出すアトラインを不機嫌そうに見送ることもあった。アトラインの外での公務を露骨に嫌がりもした。
 アトラインもブリシカも、国王の行動は妻を夢中にさせる息子をやっかんでのことだと考えていた。アトラインももっと子供がほしいという思いでいたので、国王を黙って受け入れ、時間を作っては子供と会うという生活を続けていた。
 王子は伸びやかに健やかに成長していった。
 父親譲りの顔立ちの男の子は、気性もそっくりそのまま受け継いでいた。
 誰もが、口を揃えて王子殿下は小さな陛下と例えた。
 グラニスは歩き出したころから、乳母や侍女、ロレンツを初めとした守役たちに始終わがままを言って困らせ、王宮中を引っ掻き回しては楽しんでいた。冒険やいたずらが過ぎての怪我もしょっちゅうで、グラニスの代わりに監視役のロレンツがよく叱られていた。
 しかし、必ず親子三人で採る朝食の席や公の場では、その利かん気も見事に形を潜めた。グラニスは大人しく利発に振舞い、周囲の人々を感嘆させた。そんなところまで国王に似ていた。
 ますます増えた仕事のために、ブリシカは実家に手紙を書くことさえろくになくなっていた。父母が相次いで世を去り、その跡を弟が継いだ。王宮に勤めはじめてから、実家に帰ったのはそれぞれの葬儀の際のたった二度だった。もう仕送りする必要もない給金を見るにつけ、たまらない寂しさがこみ上げたが、忙しさのうちにそれも紛れていった。
 アトラインはとうとう、二人目の子を身ごもることはできなかった。
 グラニスが九歳、アトラインが三十二歳になった年に、典医が王妃の健康のためには次の子は諦めたほうが良いと進言した。アトラインは残念そうではあったが、仕方がないと考えていたようだった。















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