深淵 The gulf
番外編 小夜風






 その年の夏、一家は毎年のごとく、離宮に避暑に訪れた。
 以前は、避暑は宮廷の移動を意味するほど大掛かりなものであったのだが、グラニスが生まれてからはごくごくささやかで私的な行事になっていた。家族はこの短い唯一の休暇にあたり、ごく近しい者たちしか供に連れなかった。
 北部の山あいの離宮は、林と大きな湖をそのまま庭園として囲っていた。夫妻は朝方に森を散歩し、暑くなる昼間にはグラニスの水浴びを眺めたりと、ゆったりと過ごしていた。
 三日目の晩の出来事だった。
 夕餉の後、夫妻は談話室に引き上げていった。数刻後、祈祷に居間へやってくるはずの二人が、時間になっても現れなかった。先にやってきていた王子が、探してくると言って談話室に駆けていき、その王子も帰ってこなかった。ブリシカは訝しく思って談話室に向かった。燭台の灯りの尽きた部屋でひとり、国王が佇んでいた。窓の向こうをじっと見つめているらしかった。
「陛下、祈祷のお時間でございますが」
「ああ」
 ブリシカが声をかけると、彼は振り返ることなく小さく頷いた。応答の声は、小さな呻きのようにも聞こえた。
「妃殿下と王子殿下はどちらに……?」
 彼は答えなかった。
「ブリシカ」
 名を呼ばれて、ブリシカは居住まいを正した。
 国王は首をめぐらせ、体をこちらに向けた。彼の茶色の目が、闇の中、ぎらぎらと光っているように見えた。
「グラニスは私の子なのか?」
 いったい何を聞かれているのか、ブリシカにはすぐにはわからなかった。
「……それは……どのような意味のお尋ねなのでしょうか」
「グラニスの父親は、私なのか?」
 思ってもみない問いかけに、やはりブリシカは言葉を失った。
「私の子ならなぜ、アトラインはあの子を愛せるのだ?」
 彼の呟きは、激しい足音にかき消された。駆けてきたのはグラニス付きの侍女だった。
「陛下、ブリシカ様!」
「何事ですか」
「妃殿下が、妃殿下が湖に入られて――」
 国王は息を呑み、次の瞬間には扉を塞ぐブリシカと侍女とを押しのけていた。ブリシカはあとに続き、廊下を渡って湖に向かった。
 ブリシカが見たのは、侍従の腕の中に横たわるアトラインだった。ついさっき桟橋に引き上げられたばかりだったらしく、全身はびしょ濡れではあったが、呼吸は確かだった。
 彼女に縋りついているのは、同じく桶で水をかぶったような姿の王子だった。
「母上、母上!」
 王子は小さな手でアトラインを抱きしめ、揺さぶっていた。
 月明かりのもとで、アトラインの顔は紙のように白かった。その瞼は硬く閉じられたまま、ひくと動きもしなかった。
「母上、目を開けてください、母上!」
 国王がよろよろとそこに歩み寄り、崩れるように屈みこんだ。
「アトライン?」
 呼ぶ声は、虚しく湖の底に沈んでいった。
 彼はおそるおそるといったようにアトラインの顔に手を伸ばした。
「触らないでください!」
 国王がその手を止めた。
 グラニスが、その青い目に涙をいっぱい溜め、父親をにらみ付けていた。
「母上に触らないでください。僕が許さない!」
 ブリシカはその悲鳴のような声を聞きながら、その場で身動きひとつとれなかった。
 夕餉の後、談話室で二人が何を話していたのか。
 アトラインが絶望したわけが。
 なぜアトラインがこんなことをしたのか、わかってしまったからだった。
 典医が侍従たちに指示し、アトラインを屋内に運ばせた。国王は身を引き、アトラインを彼らに任せた。一同が引き上げていき、桟橋には二人が残された。
 しばらく彼は立ち尽くしていた。
 静謐を裂いて、ブリシカが切り出した。
「お尋ねになったのですね。アトリーさまに、殿下は我が子かと。それを、グラニス様が聞いてしまわれたのですね」
 彼は否やといわなかった。
「ずっとお疑いでいらしたのですか。殿下が、ご自分のお子ではないかもしれないと、ずっと」
「……そうだ」
 苦しげな声だった。
「なぜですか。グラニス様が金髪だから、青い目でいらっしゃるから? 陛下や先代様が栗色の御髪でいらっしゃるから? 御懐妊の前、アトラインさまがよく王宮の外においでになったから? どこぞの雀たちがくだらない噂話をお耳に入れたから?」
 それらは塵あくたにも過ぎないことだと、ブリシカは考えていた。そんなことを信じてアトラインを疑うほど彼が愚かしいと思いたくもなかった。
 しかし、懐の中の両刃のような事実に行き当たり、ブリシカは声をひそめた。
「アトリーさまが、お二人目のお子を授からなかったから?」
 国王は唇を噛み締め、ブリシカを見据えた。そしてふいに目を反らす。
「……全てかもしれない。いや……、きっと、いずれでもない」
「では、なぜだとおっしゃるのです」
「あれが、私を憎んでいるからだ」
 ブリシカは目を瞠った。
「私を憎んでいて、どうして私の子をああも愛せる? どうしてああも心健やかに育てることができるのだ?」
 ブリシカはきつく目を瞑った。
 喉奥に生まれた疼きを何度も呑み込み、胸のうちがふつふつと煮えたぎるのを拳を握ってこらえた。深く息を吸い、一度とめた。
 数々の些細な事実が、彼の疑念を大きく育てた。
 けれど、その種が芽生えたのは、間違いなく彼とその妻とのあいだにだった。。
 アトラインは、彼のしたことを何一つ咎めなかった。無理やり犯され、結婚を強いられたことを、責めず、詰らず、黙って受け入れた。彼に添おうと決め、凛と強くあろうとした。
 けれど、おそらく彼は、おのれのしたことをおのれで許せなかったのだ。ともにあればあるほど、罪の意識は膨れていったのだ。しかしアトラインに許しを請うことはできず、彼女の心もはかりかねたまま、時を過ごしてしまったのだ。
「グラニスさまは陛下の御子です。神に誓って、間違いございません」
 嗚咽を噛み、ブリシカは続けた。
 アトラインには、国王への愛情があったのだ。
 けれど、目に見えはしないものは、無いと言ってのけるほうがよほど易しい。
 在るとあかすすべが、世界のどこにもないのだから。
 国王は、自分が憎まれていると思っていたかったのかもしれない。
 愛されているのだと、裏切られるかもしれないささやかな期待を抱くより、憎まれていると頑なに信じ続けたほうが楽でいられたのかもしれない。
 あやうい均衡のうえにようよう成り立っていた、ふたりであったのかもしれない。
「十七年も添うて、お子まで為した方を憎み続けるほどができるほど、あの方はお心の強い方ではありません」
 涙が零れて頬を滑ったが、気には留めなかった。
「強い方では、ないのです」







 
 アトラインはその晩から、幾日も高熱に悩まされた。
 うなされる彼女のそばには常にグラニスが寄り添い、ブリシカも従った。
 夜半だった。普段のグラニスならば、とっくに寝入っている頃合いだった。
「殿下、もう、おやすみくださいませ」
「いやだ」
 ブリシカがそう言うと、グラニスは首を振る。
 寝台のそばの椅子に掛け、母の顔をじっと見下ろしている。
 もともと、大変に利かん気の強い男の子だった。アトラインは普段はそれを微笑ましく見守っているけれども、わがままの度が過ぎれば厳しく叱る。
 いつもの彼女ならグラニスにこう言っただろう。あなたが休まなければ、部屋付きの者の仕事は終わらないのですよ、と。厳しく叱られたグラニスは、たいていべそをかいて寝台に入るのだが、その側にはいつもアトラインが添い寝してやっていた。グラニスが生まれたときからずっと、夜に眠る前だけは母子は二人きりになれたから、アトラインはその時間をとても大切にしていた。
 ブリシカは薄い羽織物を持ってきて、グラニスの肩にかけた。
「お召しくださいませ」
 うん、とグラニスは頷いて、薄物を頬に引き寄せる。
「次の鐘が鳴ったら、おやすみになるのですよ」
 グラニスはまた、小さく肯じた。
 ブリシカはそのすぐ後ろに椅子を引っ張ってきて、静かに腰掛けた。
 眠れないのはブリシカも同じだった。
 何か容態に変化があれば、すぐに典医に知らせることになっている。ブリシカのほかにも、侍女と女官が交代で寝室に詰めていた。
 もうひとり、あの晩から一睡もしていない人物がいた。
 国王だった。
 彼は自室に篭もり、ろくに食事もとらずに過ごしているらしい。一度だけこの部屋を訪れた彼を、グラニスが追い返してしまったのだ。
 ブリシカは、グラニスの小さな肩越しに、アトラインの小さな顔を見つめた。
 十年前、アトラインが話していたことが思い出された。彼女は、国王の子供を産めるのなら、お産で死んでしまってもかまわないのだと言っていた。ブリシカを困らせてまであんなことを言ったのは、子供を望んでいる国王に応えたいと、切実に願っていたからだ。
 国王が、アトラインの不実を疑っていた。
 それは、アトラインがグラニスを愛していたからだった。もしも自分が九年前に命を落としていれば、国王はグラニスの父親について疑わなかったかもしれない。幼いグラニスに、そんな会話を交わす両親の姿を見せずにすんだかもしれない。アトラインが死んだ後、国王は若く健やかな新しい妃を娶ったかもしれない。幸せに暮らしていたかもしれない。
 ありもしない不貞を疑われても、彼女は夫を責めなかっただろう。きっと、縋りついて弁解することもしなかっただろう。ただ涙を堪えて夫の前から去り、衝動のままに夏の湖にはいったのだ。
 アトラインは、泣き縋る息子の声を聞いていたのだろうか。
 こんなにも夫に似ている、母を慕う小さな息子の叫びも、彼女の足をとめることができなかったのだろうか。
 ブリシカは初めて、おのれのあるじを責めたいと思った。














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