廃園の花
前編




 大正の初めの春のことでございます。
 私の住んでおりました場所の近くに、花屋敷と呼ばれていた小さなお屋敷がございました。
 私はその時分、物の道理もわからぬ小学生でありました。歳は十に足るか足らぬかであったように記憶しております。尋常小学校を卒業する少し前のことですから、おそらく大正五年頃でしょう。
 自分は他の女の子よりも大人びているつもりでありました。家業が髪結い、まあ今風に言えば美容院をしておりましたので、家には若い奥様や姦しい女学生がたがたくさんおいでになりました。そんな中で育ちましたもので、私は大人の流行を見知ったふうに振舞う子供であったのです。
 学校からの帰り道には、お友達といつも花屋敷の前を通りかかりました。お友達はこのお屋敷のことを「なぜだかわからないが近づいてはいけない家」だと言っていました。親御さんにそう言い含められたそうでございます。
 お屋敷には若い女の人が一人とお女中が二人きり。それくらいしか子供の耳には入ってまいりませんでした。どうして近づいてはいけないのか、その理由を教えられたわけではありません。ですが、そう言われれば近づきたくなるのが子供という生き物の道理。
 私の父は家に仕事場をもっておりまして、そこで髪を切ったり結ったりするのが常でした。ですがお得意様の御用の際には、直接にお客様のお屋敷をお訪ねすることもございました。花屋敷の方も、父をごひいきにしてくださっていたお客様のうちのひとりでした。
 父は、週に一度かならず花屋敷へ仕事にまいりました。あるとき、花屋敷から帰ってきた父に、このように尋ねたことがございます。
「花屋敷の奥様はおきれい?」
 旦那様がいると知っているわけではありませんでしたが、みなが花屋敷の女性のことを奥様と呼びました。姿を見たことがあるわけではないのに、私のこころの内にはすっかり、華やかな着物をきこなした気高く上品そうな像ができあがっておりました。
 父は眉をひそめました。
「多真子、あそこのお屋敷のことは、あんまり口に出しちゃならん」
「どうして?」
 私はませた子供でありました。なぜ、どうして、といつでも誰かに聞かずにはおれなかったのです。好奇心が人一倍強い子供でした。
 母は私が口数の多い娘ということを嫌がって、私が口を開くとぷいと顔を反らせてしまうこともありました。兄はその分寡黙なたちでした。しかし父は、私の下らぬおしゃべりにも付き合ってくれ、「多真子は利口だ」とよくほめてくれさえしたのです。
「とにかくいかん」
 それきり父は黙り込み、商売道具の鋏と櫛の手入れを始めました。父があんまりにも恐い顔をしておりましたので、私はそれ以上は何も尋ねることができずに台所へ向かいました。
 食事の支度をしている母に同じことを聞こうと思ったのです。案の定、母は私と父の会話を聞いていたらしく、目を険しくして私をにらみつけておりました。
 私は箱膳のなかの食器を出し出し、胸のうちを疑問と興奮でいっぱいにしておりました。
 私は幼いときから、きれいなものが大好きでした。たまにしか目にすることのできない淡い色をした和菓子、お客様の着ている色取り取りの洋服。着物の生地。季節の花に、昔物語のなかのお姫さまたち。そういうものに心を寄せ、うっとりするのが私の楽しみでございました。
 何より私の心をくすぐるのは、美しい女性でした。新興の耽美主義なるものを、齢十にして私が理解していたわけではありません。官能とか成熟した女の魅力とかはわかりません。
 ただ若い女性−−若くなくともよいのですが−−の放つ独特の、香りとでも言うのでしょうか、雰囲気が、私は好きだったのです。
 黒髪が父の手によって鮮やかに結い上げられてゆくさま。父に掛る前と後とでは、目に見えて女性の表情が違います。
 疲れたような影を目の下に浮かべた奥様は二〇三高地髷などというふうに髪を結われると、ぱっと輝くようなお出掛け用の笑顔を浮かべます。あどけないやさしい笑顔の女学生が「モガになりたい」と言って断髪すれば、そこにいるのは涼しき装いのすましたご婦人。みな生まれ変わったように華やかな雰囲気をまとって店を出ていきます。
 私は父とともにそれを見送りながら、思ったものです。花屋敷の奥様はどんなにきれいだろうか。きっと、他のお客様とは比べものにならぬくらいのご婦人に違いない。だって、あのお屋敷で花に囲まれて暮らし、父を呼びつけることさえできるのだから、と。
 ある日の夕方、通学路でお友達と別れた後、私はこっそりと来た道を引き返しました。もちろん花屋敷へ向かうためです。父や母に叱られることなど、頭の隅にも思い浮かんできませんでした。私は確かに少し頭の回りのはやい子供でしたが、同時に一つのことに夢中になると我を忘れてしまうという性質も持っておりました。
 花屋敷の門は、かたく閉ざされておりました。それはいつものことでした。しかし、今日は特別に大きく見えました。まるで私を追い返したがっているかのように。
 私は裏口へ回りました。裏口の戸は低うございましたが、私が塀の内側を伺うには高すぎました。背伸びしても届きません。
 そのかわり、戸の下をもぐって中へ入ることのできそうな様子でした。地面に腹這いになれば、小さく薄っぺらい子供のからだは難なく通り抜けられそうです。
 私は少し戸惑いました。私ははじめ、お屋敷の女主人の姿を垣間見るくらいでよいと思っていたのです。塀の内側に忍びいるのは少しやりすぎではなかろうか。いいや、やりすぎというよりこれは、泥棒と間違われてもしかたないのではなかろうか。
 ですが、好奇心には打ち勝てませんでした。ちょっと奥様を見て、そしてすぐここに戻ってきて逃げ出せばよいと思ったのです。
 人通りのないことを確かめます。
 私は白い布鞄を下ろし、目立たぬように塀に寄せました。
 体を伏せて、さっと戸口の下を抜けました。立ち上がって服の泥を払います。建物の雨戸も障子も開け放されておりました。部屋のうちに人影はありません。沓脱に草履が一足あるのを別にすると、人の住んでいる気配というものがあまり感じられませんでした。
 小さな庭では、一本きりの桜が花を満開にさせていました。その隣には花の落ちてしまった梅。桃らしい木もありました。そのほかにも、鉢植えやら洋風の花壇やらが所狭しと並べられておりました。花屋敷と呼ばれるにふさわしい絢爛ではありました。
 私には庭木のことはよくわかりませんが、これではあまりに無節操ではないかと思えたものです。季節などまったくかまわず、花のついているのもそうでないのも、とにかく植物というものが、庭いっぱいに広がっておりました。
 これだけあれば、花が絶えるときはないに違いないと、そう思いました。
 私はぼうっとしていたのです。
 だから、誰かがお屋敷の中の襖が開けて歩いてくるのに気づかなかったのです。
「どなた?」
 柔らかい声が聞こえてやっと、私は我にかえりました。
 びっくりしてそちらを見ると、縁に一人の女性が立っていました。
 濡れ髪を肩に垂らし、浴衣を着ています。歳は三十か二十か、どちらにも見えました。
 風呂から上がったばかりなのか顔は心持ち上気していました。豊かな黒髪が耳やうなじにまとわりついて艶かしく、口唇は赤く潤っているように見えました。夢見るような大きな黒い目が、不思議そうに私を見下ろしています。そこにいるだけで空気が変わるような、その瞳の輝き。
 その美しさが存在感であったのです。
 とにかく、私がふたたび茫然としてしまうほど美しい女性であったのです。彼女と比べられれば、今まで私の出会ってきたどの女人も霞んでしまうでしょう。
「お嬢さん、なにか御用?」
 お嬢さんとは私のことなのだと気づいて、私は顔を真赤にしました。口を開けましたが、何を言えばいいのか言葉がみつかりません。逃げ出さなければならないのに、足が動きません。
 私は彼女を見上げて、口をぱくぱくさせていました。傍から見ればどれだけ滑稽な格好だったことでしょうか。私は女のくせに、女の人に見とれて何も考えられなくなっていたのございます。
「いたずらしにきたの?」
 私は首を振りました。
「それじゃあ、私のお客さまね」
 見ず知らずの子供が勝手に家の中へ入り込んでいるのに、叱るでもなく気味わるがるでもなく、彼女は笑いました。その淡い微笑みに、私の頭は熱に浮かされたようになりました。
「おトミさん、いただいた苺があったでしょ。あれをもってきてくださいな」
 彼女がそう言うと、すぐに中年の女中が硝子の皿を持ってきました。彼女は真赤な苺がきれいに盛られているのを受け取ります。
 おトミと呼ばれた女は訝しげに私を見遣りましたが、何も言わずに奥に下がりました。彼女はそんなことは全く意に介さず、私に濡れ縁に座るように言ったのでございます。
「召し上がってちょうだいな」
 そう言われますが、苺は山と盛られております。とても子供が一人で食べられるようなかさではありません。
 そもそも、なぜ誰にも見つからないよう忍び込んだ私が、名前も知らない女性に水菓子をご馳走になろうとしているのでありましょうか。
 彼女は心配そうに訊きます。
「苺は嫌いかしら」
 嫌いどころか、私の家庭では滅多に食べられないごちそうでした。それも、こんなにたくさんの苺です。目の前にしただけで気が遠くなりそうな贅沢品です。
「……嫌いじゃないんだけど、でも……」
「いいのよ。私はもう食べてしまったあとだから」
 この美しい女性がこの花屋敷の女主人であろうことは容易に知れました。その人が食べろと言っているのだから遠慮せずともよいのでしょうが、私はためらって手をつけないでおりました。
「ほら、お口を噤んでいては楽しくないじゃない。あなたはお客さまなんだから、私とお喋りするかこれを食べるか、どちらかなのよ」
 私はしかたなく皿からひとつ摘みました。
 弾けそうなほど張りつめた果肉の感触。口に運ぶと、甘い香りが強くなります。よく熟れた苺でした。歯を立てると、酸っぱい果汁が溢れてきました。
「おいしい?」
 彼女は、夢中になって食べている私の顔をのぞき込みます。私は頷きました。
「あなた、お名前は?」
 私はちょっと考えました。
 父は髪結いの仕事で毎週決まってここを訪れているのですから、名乗ってしまうとこの人から父へ話が伝わるやもしれません。だから、名前だけを教えました。
「そう、多真子ちゃんというの。歳はいくつなの?」
「十」
 隣に座っている彼女は、会話しながらも、ぼんやりと庭の花々のほうを見ています。私はその横顔を見つめました。私は尋ねました。
「あなたは?」
 彼女は私のほうに向き直りました。
「私?」
「うん」
「名前は香織。歳は十八よ」
「十八?」
 驚きました。もっと年上かと思っていたのです。しかし、言われてみればそんな気もしてきました。香織には、色香と初々しさが共存していました。危うい均衡を保ちながら。
「香織さんは、学校には行ってないの?」
「高等小学校まではね、通っていたんだけど。それからはずっとお勤めね」
「何をしてるの?」
 香織は答えずに、曖昧に笑いました。それが少し寂しげだったのを、私は今でもはっきりと覚えております。
「多真子ちゃんは、お父さんは何をなさってるの?」
「髪結い」
 しまったと思いました。やさしい甘い声に誘われて、私は何も考えずにこう言ってしまったのです。香織は大きな目をさらに見開きます。
「多真子ちゃん、ひょっとして、石川さんのところのお嬢さんなの?」
 私は肩をすくめました。
「……そう」
「私ね、いつも石川さんに髪を結ってもらっているのよ。いいわね。多真子ちゃんのお父さんは、ほんとうに上手な髪結いさんね」
 香織は楽しげにこう言いました。私の困惑などわかるはずもありません。
「あのね、私がここに来たって、父ちゃんには言わないで」
 香織は小さく頷きました。私は少し驚きました。
「どうしてって、聞かないの?」
「聞いたら多真子ちゃんが困りそうだから、やめとくわ。そのかわりに、お願いしてもいいかしら」
 確かに、問われれば私は困っていましたでしょう。父に叱られるからと答えれば、なぜ叱られるのかと尋ねられます。父があなたに関わるなと言ったから、などとは口が裂けても言えません。
 何をお願いされるのか、私はびくびくしておりました。
「お友達になってくれない?」
 私はあっけにとられました。香織は真剣な顔をしています。
「ここにはあんまり人が来ないの。ほんとうにときどきなのだけれど、多真子ちゃんみたいにこっそり来る人もいるの。でも、みんなすぐ逃げてしまうのよ。たまにでいいの。お菓子を食べるだけでいいから、学校の帰りにでも、ここに来てくれないかしら」
 私はぱっと顔を輝かせました。願ってもないことでした。私はすぐに頷こうとしましたが、頭に父の顔が浮かびます。厳しい母ばかりか、いつも大らかな父でさえ花屋敷には近づくなと言いました。
 このきれいで無邪気な女性となぜ関わってはならないのか、幼かった私には皆目わかりませんでした。
 わからないままでいたかったのでございます。
 私と香織の出会いから、およそ一月が経ちました。
 私は放課の後、毎日のようにお友達に知られぬよう帰り道を引き返し、香織のもとへ遊びにまいりました。週に一度、父が花屋敷へ髪結いに行く日だけを避けて。香織はいつも水菓子やら甘いものやらを用意させて、私を待ってくれていました。おトミともう一人の女中は私を渋い顔をして見ていたものの、小さい子供がちょこまかと歩いているのも次第に気にならなくなったようでございました。
 香織は女中たちから香織様と呼ばれていました。濡れ髪に浴衣などという格好は初めの日だけで、香織はいつも地味ですが上等そうな着物を着ていました。
 なぜ家族の一人もなく花屋敷に住んでいるのか、手に職のひとつも持たぬ様子の香織がどうしてこのように豊かな暮らしをしているのか、不思議に思わないではおれませんでした。
 私は何か疑問というものを感じますと、すぐさま答えを知らねば落ち着いていられない性質でした。しかし、香織にだけは何も尋ねることができぬままでありました。
 聞いてしまえば、この優しい時間が危うく崩れ去ってしまうのではないかと思っていたのです。子供の当て推量とはいえ、それは正しい選択でございました。
 桜の花がはかなく落ち、青い若芽をいっぱいに広げはじめた頃のことでございました。花屋敷の庭の隅では、濃い紫色のすらりとした花が咲き誇っておりました。私は名を存じませんでしたが、香織が、あれは菖蒲というのだと教えてくれました。
 恥ずかしながら私が学校で同級の男の子と取っ組み合いの喧嘩をした日のことです。
 男の子との喧嘩の理由は、今では覚えていないくらい些細なことでした。  それよりも私の心に鮮やかに思い出されるのは、おでこに大きなたんこぶを作って現れた私を見たときの、香織の笑い声でした。
 香織はよく笑う女でしたが、それはいつも控えめな微笑みで、声をあげて笑うということはそれまでなかったように思います。
 時折見せる翳りのある表情が多分に美しく、私はよく見とれていたものです。ですがそれは、香織がおのれに纏わりつく暗い影を振り払えないでいたのだと、私は後に知ることになります。
 私と香織はいつものように濡れ縁に腰掛け、黒砂糖を噛っておりました。  香織が私の額に触れました。香織の白い指はひんやりとしておりました。 「まだ痛いの?」
 私は黒砂糖の甘さに口をすぼめつつ、頷きました。
 そのときでございました。襖が音を立てて開かれ、おトミが姿を表わしました。私たちが二人でいるあいだは、用のない限り決して姿を見せぬ女です。少し慌てた様子でおりましたので、私は何事かとおトミの言葉を待っておりました。
「旦那様が、急に」
 香織の表情がさっと強ばったのを、私は見ました。香織は立ち上がりながらおトミに尋ねました。
「いらしてるの? 今どこにお通ししてるの」
「玄関で、お待ちですけど……」
「そう」
 香織は寂しそうに目を伏せました。
「多真子ちゃん、悪いのだけれど、今日はもうお家に帰ってくれるかしら。お客さまがいらしたの。本当に急で、ごめんなさいね。おトミさん、黒砂糖を包んであげて」
 その普通でない様子に、私は訝しさを覚えました。訝しさとともに、僅かな苛立ちが沸き上がりました。おトミが台所から戻ってくるのを待たず、私は裏口から通りまで駆け出しておりました。
 私は、自分よりも大切な客が香織にはいるのだということを知ってしまったのです。それは子供じみた理不尽な独占欲だったのですけれども、私の幼く柔軟な心はそのとき確かに傷ついたのでした。
 私が欲しかったのはお菓子ではありません。私は、香織と一緒にいたかっただけなのでございます。
 次の日、私はお友達と別れた後も、花屋敷へはまいりませんでした。放っておかれることの寂しさを香織も味わってみればよいと思ったのです。
 ですがその晩布団の中で、私は罪悪感に苛まれました。香織はいつもと変わらずに、私を喜ばせようとお菓子を準備して、私を待っていたに相違ないのです。
 美しい香織が悲しみに沈んでいるのを想像すると、私はたまらなくなりました。
 その翌日は、学校が終わるなりお友達の誘いも断って、真っ直ぐに花屋敷へ向かいました。
「香織さん、香織さん」
 呼びかけると、すぐに裏口の戸が開きました。立っていたのは香織でした。
「待っていたのよ」
 香織はそれだけ言って、私を中へ招き入れました。悲しいような光を放つ瞳を見て、私はいたたまれなくなりました。昨日のことを咎めるでもなく、香織は私に牡丹餅をすすめました。胸焼けしそうな甘さの餅を頬張ることが、ひどく難儀に思えました。