廃園の花
後編




 時間は穏やかに過ぎ去りました。私と香織の間にはその他に事件らしい事件もなく、半年が経ちました。放課の後に香織と他愛ないおしゃべりをし、お菓子をご馳走になり、日が落ちはじめると家へ帰る。そんな日がいつまでも続けばよいと、私は思っておりました。
 ごくたまに、突然の来客があって、私が帰らされることはありました。そんなとき香織はきまって何度も私に謝り、また来てねと言うのでした。香織には何か特別な事情があるのだと、私も理解するようになっていました。ですが、香織やおトミが「旦那様」と呼ぶ御仁を目にすることはございませんでした。
 香織はおもに、庭に面した広い二間続きで暮らしているようでした。奥には台所と客間、それから玄関があるらしいのですが、私が足を踏み入れることは最後までありませんでした。そもそも私は、門からこのお屋敷に入ったことさえなかったのです。
 香織の用意するおやつに、私の大好きな焼き芋や栗が姿を見せはじめたころでございました。夏が終わり季節が秋となっても、お屋敷の庭には花が絶えることがひとときもありませんでした。
 夏ごろからどうしてか香織が暗い顔をすることが多くなりました。私は明るい話をして香織を慰めようとしておりましたが、功を為さずに終わりました。客の来訪がはたと無くなったのも、このころでした。
 ある日曜日のことでございました。
 私は父の仕事場で手伝いをしておりました。
 父の示した髪油や道具を棚から選んで取り出すだけの易しい仕事で、私は手持ち無沙汰でおりました。
 髪結いとは化粧師や着付け師も兼ねておりますし、何より仕事のあいだにもお客様を飽きさせぬための話術に長けていなければなりません。ご婦人がたの話の種といえば、ご隣人の噂と相場は決まっているのでございます。それゆえ、父は母よりもよほど近隣の下馬評に通じていました。
 父が私のおしゃべりに嫌な顔をしなかったのも、そういう理由のためだったのだと思います。私は髪結いが好きで、将来は父の仕事を継ぎたいと息巻いておりましたから。
 そのときのお客様は、三十歳くらいの、少し若作りのご婦人でした。父のお得意様のひとりで、頻繁に店にいらっしゃいます。
 なぜ数多いお客様の中で私がその方を覚えていたかと申しますと、その方は噂話をするときだけ、きまって声が甲高く大きくなるからだったのです。
 盗み聞きは品がないと申しますが、その方のお話を聞かずにおれというほうが無理というものでございました。
 髪結いとは客商売ですから、難しいのは立場というものであります。
 どのお客様がどなたの噂をどのようになさろうと、ただ黙って笑って聞き流しておらねばなりません。適当に相槌をうつだけではいけませんから、お客様のお気持ちを損ねぬようなうまい返事をひねり出す知恵も要ります。
 父はお話を聞いて困ったような顔をしながらも、手を休めることはありません。
「ねえ、ご存じ?」
 ご婦人が、新しい話題を引っ張り出します。私はまたかと思いつつ、顔には出さずに黙って父の側に座っておりました。
「中曽根の大旦那様がお亡くなりになったんですってよ。夏から伏せっていらしたらしいんですけれど、急にお悪くなったんですって」
 父は少し驚いた様子で、手を止めました。
「中曽根とおっしゃいますと、中曽根伯爵様でしょうか」
 すると、ご婦人は声を忍ばせて笑いました。いやな笑い方だと思いました。
「それ以外にどなたがいらして? ……ほんとうに急なお話だったこと。あそこの旦那様も結構な方でしたから、放蕩が過ぎてお体を壊してしまったのかしらねえ。妾を囲ったり芸者遊びをしたりは男の方の甲斐性とは申しますけど、それで身を持ち崩してはお話になりませんわね」
「ああ……、花屋敷の」
 父が言いにくそうに口に出したのは、香織のお屋敷のことでした。
 すぐには話の内容を解することができずに、私はぼんやりしておりました。
「そう。町の真中にあんな立派なお屋敷を作らせて。あそこには二号さんがお住まいなんだったかしら。孫ほどのお歳だって言うじゃありませんか。あなた、お会いしたことはあって?」
「ええ、花屋敷の奥様には、いつもごひいきにしていただいてますよ」
「お可愛そうにねえ。お子さまは当然いらっしゃらいないんだろうし、そうなったら中曽根のお家のお世話になるわけにもいかないでしょうしね。御内儀はかなりきつい性格のおかたらしいから」
 ご婦人と父は、香織の話をしているのです。
 香織の顔が脳裏に浮かんでまいりました。
 なぜ手に職もつけない様子の若い香織があんなお屋敷で暮らしていたのか。家族もいなかったのか。お屋敷に忍び込んだいたずらっこの私とお友達になりたがったのか。私などのつまらない話を聞きたがっていたのか。私が香織に聞きたくても決して聞けなかったことが、一度に答えになって私のところへやってきたのです。
 そう気づくまでに時間がかかりました。香織は中曽根という家の旦那様のお妾で、その旦那様がお亡くなりになったというのです。それではこれから香織はどうするのでしょう。ひょっとすると、もうあの花屋敷にはいられなくなってしまうのでございましょうか……?
「おあとは、伯爵様の御令息が継がれるので?」
「そのようねえ。お父様とちがって真面目な気性の方という噂ですけれど?」
 ご婦人の話の続きも聞かぬうちに、私は表へ飛び出しておりました。
 夏の初めのころから、香織は沈鬱な表情でいることが多くなっていました。それは、香織を囲う男が病に伏せていたからなのでしょう。そして香織がいつも悲しげな影を背負っていたのは、お妾というその身の上ゆえだったのでしょう。
 私は花屋敷へ走りました。
 裏口へ回って呼びかけてみます。返事も、戸の開く様子もありません。
 私は少しも躊躇せず、木戸の下へ潜り込みました。
 庭は静まり返っておりました。
 洋風花壇の秋桜が、寂しげに揺れておりました。
「香織さん」
 声はむなしく風に消えました。
「香織さんったら!」
 香織が家の中にいるのかもしれないと思い、私は締め切られた障子に向かって声をかけました。しかし、いらえはありませんでした。
 あのやさしい香織が、私に何も言わずに去っていってしまうはずがありません。私たちはお友達なのです。香織がどんな人であってもそれは変わらないのです。
 私は縁によじのぼり、勢いよく障子を開けました。人の気配はありません。ただ床の間の壺が倒れ掛け軸が落ち、部屋の中は荒れた様子でした。恐ろしい予感がしました。
 襖が半端に開いておりました。
 私は小さな隙間から、隣の部屋を覗き見ました。
 部屋の真中に、布団が一組敷かれておりました。掛け布団の向こう半分は捲れ上がっていました。
 そのなかに香織が横たわっていました。身動きひとつとりません。長襦袢を乱して、胸元や肩をさらしているのです。流れるような黒髪は畳にまで艶かしく広がっておりました。
 私は恐る恐る部屋に入りました。近づくと、香織の弱々しい呼吸の音が聞こえます。よく見れば布団の周りに帯やら着物やらが散らかっていました。
 おトミやもう一人の女中の姿はありませんでした。
 無気味な静けさのなかに、美しい香織が死んだように寝かされているだけなのです。私はかがみ込み、香織の顔を見つめました。その白い頬に涙のあとが残っているのがわかりました。
「香織さん」
 泣き声で、私は香織を呼びました。なぜだか悲しくてしかたなかったのです。香織はきっと、誰かに泣きたくなるほどひどい目に遭わされたのに違いありません。いったい誰が、弱々しくはかなげな香織にそんな真似ができたのでしょう。
「香織さん、起きてよう」
 青ざめた顔が、僅かに歪みました。眉が寄せられます。香織は、薄く目を開きました。私を認めて少しばかり目を見開きます。
「たまこちゃん?」
 掠れた声でした。泣いたあとのような。
「ねえ、誰にこんなことされたの。誰が、香織さんにひどいことをしたの」
 香織は部屋を見回し、次に自分を見遣りました。香織は辛そうに身体を起こし、長襦袢の胸元を掻きあわせます。美しい顔が苦痛に歪んでいました。
「父ちゃんたちが話してた。香織さんの旦那様は亡くなったんでしょ。それなら、香織さんにこんなことする人はいないはずでしょ」
 香織は、突かれたかのように顔を上げました。赤い口唇を噛み締めて、信じられないとでもいうように私の顔を見つめています。私たちはしばらく見つめあいました。さきに視線を反らしたのは香織のほうでした。
「そうなの……。みんな、聞いてしまったの」
 香織は悲しそうに笑いました。なにもかもを諦めているような笑みでした。
「多真子ちゃんは、何にも知らないんだと思っていたわ。私のこと、嫌になった?」
 香織が切ない瞳で私を見上げてきます。私は首を振りました。すると、香織は目を伏せました。
「私はね、自分が大嫌いなの」
 掛布団を掴む手が震えています。
「旦那様のお妾になって、こんなお屋敷に住んで、贅沢をしている自分が大嫌いよ」
 私は何も言えないでおりました。香織はゆっくりと立ち上がり、縁へ通じる障子を開けました。庭を見つめて、香織は静かに語り始めました。
 香織が生まれたのは貧しい農家でございました。
 長女であった香織は、八つの年に中曽根伯爵のお屋敷に奉公に出されます。
 そのときすでに、父と中曽根伯爵の間には、香織の与り知らぬ所で約定ができておりました。香織が十五に成ったら、伯爵のお妾にして屋敷を与えて住まわせようという。
 子供の時分の香織を目にした伯爵が、一目で香織を気に入ったのでした。伯爵の御内儀が厳しい性質でいらっしゃるのは有名な話でしたから、別宅をかまえていただけるというのはとても有り難い話に違いありませんでした。
 香織は十五になるまで、伯爵家のお屋敷で女中として働いておりました。好色な主人が今度は幼い娘を連れてきたと、使用人たちは香織のことを煙たがりました。親もとを離れて寂しくしていた香織にただ一人親しくしてくれたのは、香織よりも二つばかり年上の、伯爵の御嫡男である義高様でした。
 香織は義高様にほのかな恋心を抱くようになりました。しかし、おのれは伯爵家の奉公人。かなうべくもない恋だと胸の奥底に想いを閉じ込めて、香織は十四まで義高様のそばに仕えておりました。
 お屋敷のみなが義高様のことを若旦那様とお呼びするようになっても、香織は心の中に義高様のお名前を大切に抱いておりました。
 義高様が十六になった秋、子爵家の御令嬢との縁談が持ち上がりました。お屋敷にいらしたのは、華やかなお着物を着て髪を美しく結い上げた御令嬢でした。香織と同じお歳だといいますが、とてもそうとは信じられないほど大人びた御令嬢でした。
 この方は間違いなく義高様にふさわしい方だと、義高様がおのれのような娘を気にかけてくださっていたのはやはり哀れみに過ぎないのだと、香織は思い知りました。
 御婚約の成り立った、おめでたい日の夜のこと。
 香織は、布団の中で声を殺して泣いておりました。
 みなの寝静まった女中部屋に、近づいてくる者がおりました。襖がすうっと開けられて、誰かが香織の布団に近寄ってきました。香織は泣くのをやめて、じっとその足音に耳をすませておりました。
 誰かが香織を呼びました。ひそめられた声は、義高様のものでした。香織はびっくりして、声の主を見上げました。目を真赤に腫らした香織を見て、義高様は笑いました。
 義高様は香織を庭に連れ出しました。香織には何がなんだかよくわかりませんでしたが、義高様が穏やかな表情でいらしたので、黙ってついていきました。
 義高様は、秋の夜の庭で、六年間隠していた御自分の恋を香織に明かしました。
「昔からおまえの一途な気持ちは知っていた。それなのにおまえは、私も同じ気持ちでいたことに、気づいていてはくれなかったんだろう?」
 香織は、義高様の言葉を容易には信じられませんでした。ようやく何を言われているのかを解したとき、泣きつかれていた香織の頬に、また新しく涙が滑りました。
「それでも、私はおまえを妻にしてやれない。許してくれとは言うまい」
 義高様は心配そうに、香織の顔をのぞき込みます。
 香織は頷きました。義高様のお側にいられるのなら、お屋敷の女中のままでいても、お妾になってもよかったのです。義高様のやさしさがただ一人自分のものであるということが、これ以上ない幸福でした。
 ふたりははじめてのくちづけをかわしました。
 それが最後のくちづけになるとは、香織には知るすべもありませんでした。
 ふたりのひそやかな逢瀬を、偶然に目にした者がありました。義高様のお父様でいらっしゃる、中曽根伯爵その人でございました。
 一人息子には、すばらしい縁談をととのえてやったばかり。いずれはご自分の跡を継がせようと可愛がってきた賢い息子です。
 長じれば次妻にしようと思って引き取ってやった娘は、想像以上に美しく成長しました。あと一年すればあれが手に入るのだと、こっそりと楽しみに待っていたのです。
 その二人がこそこそと逢引などして、幸せそうに口唇を重ねさえしたのです。
 伯爵は憤慨しました。
 そして、十五になるまでは手を出さないと香織の父と約束したことも忘れ、香織を寝間に呼びつけて荒々しく手籠めにしました。
 香織は、伯爵がこう吐き捨てるのを聞きました。
 おまえは儂の妾になるためにここに連れてこられたのだ、それが我が息子と通じるとは何ということか。不義理者が、恥を知れ。
 義高様と想いを通じあわせた、その次の日のことでした。
 香織はからだを苛む鈍い痛みのなかで、ぼんやりと考えていました。
 案のごとく、はじめからかなわぬと定められた恋だったのです。香織は伯爵のお妾になるためにお屋敷にやってきたのですから。義高様との出会いは、偶然のもたらした皮肉でしかなかったのでございます。
 昨晩の甘くやさしいひとときが、まるで短い夢であったように思えました。義高様の柔らかい口唇の感触は、伯爵の手ひどい陵辱のあとでは、もう思い出したくても思い出しようがありません。涙も流れませんでした。
 香織は、伯爵がかねてから用意していたお屋敷に移されました。
 義高様が何を思ったか、香織にはわかりませんでした。
 ただ、香織は知っていました。おのれが、義高様に想いを寄せていると言いながらそのお父様のお妾の座におさまった、恥知らずな女だということだけは。
 義高様は自分のことを裏切りものと罵ったのでしょうか。そう思うと、夜ごと伯爵にからだを開かされるよりも、身をずたずたに斬られるような思いがしました。義高様にきれいに忘れてもらえればいいと、香織は思いました。
 はじめの一年のうちは伯爵の訪れが嫌で嫌でたまらず、お屋敷から逃げ出したことも何度かありました。町の人間は香織に冷たく、また家族でさえも香織をお屋敷に帰らせようとしました。自分には行き場がないのだと香織は悟ってしまいました。
 お屋敷を与えられてからはじめての秋に、義高様は子爵家の御令嬢と祝言を挙げました。それきり、香織はお屋敷を逃げ出すことをあきらめました。
 週に一度訪れる伯爵のために、香織は髪結いを呼んで美しく装いました。そうすることがいちばんの幸せなのだと、香織はおのれに言い聞かせました。
 伯爵の香織への態度もしだいに柔らかくなりました。伯爵は、香織がお屋敷で一人寂しく暮らしているのを慰めるため、庭にたくさんの花を植えさせました。香織のいただいたお屋敷が花屋敷と呼ばれはじめたのは、こういう理由のためだったのです。
 胸に燻りつづける悲しい恋から目を背け、香織は花屋敷で暮らそうと定めました。退屈を紛らしてくれる、幼く可愛らしいお友達−−おそらく私のことでしょう−−もでき、ようやく心を穏やかにしていられるようになりました。
 四年目の夏、中曽根伯爵は病を得て、床に伏せてしまいました。香織のもとを訪れることもなくなりました。そしてその秋には、あっけなく亡くなってしまったのです。
 ですが、これからのことを案じる必要はありませんでした。
 花屋敷の建物が香織のものになっていることは知っていました。伯爵はかつて寝物語のなかで冗談のように、自分が死んでも香織が今までと変わらず暮らしていけるように準備を調えていると言いました。
 それが思っていたよりもはやく実現してしまっただけのこと。隠遁するには十八という年齢は早すぎるような心地もいたしましたが、香織は安堵しました。
 香織はそこまで話すと、白い顔で自嘲するように笑いました。
 伯爵の葬式が終わった晩に、花屋敷にやってきた男。葬式に出ることも許されなかった香織のもとを訪れ、香織に狼籍をはたらいた男。香織を泣かせたひどい男。
 それがいったい誰であったのか、いまさら口にするまでもありません。  私が茫然として香織を見上げておりますと、香織は草履を履いて庭へ出ました。
「おトミさんに若旦那様がいらしたって聞いたときね、私は恐くてたまらなかったの。それなのに、心のどこかで期待してしまっていたのね。義高様は私が無理やり旦那様に囲われていたことをご存じでいて、それで私を迎えに来てくれたのかもしれないって」
 香織は花壇の前にかがみ込み、群れて咲く秋桜にそっと触れました。私は縁に立って、それを見下ろしているしかできませんでした。
「私、怖くて、黙ったきりだった。目をあわせることもできなかった。義高様はね、この屋敷はおまえにくれてやる、女中も付けたままにしてやる、好きなだけ贅沢をさせてやる。でも、たった四年の妾奉公にしては手当てがすぎるから、今度は私に囲われろ、おまえのような女にはそれが相応しいって、そうおっしゃったの」
 香織は私に背を向けています。香織の表情を読み取ることはできませんでした。涙を流していたのかもしれません。気丈に口唇を噛み締め、耐えていたのかもしれません。
「逃げ出そうと思えばできたはずなの。でも、義高様は、ずっと悲しそうな顔をしていたの。だから、できなかった」
 私は、恐る恐る口を開きました。
「まだ好きだったの。その人のこと」
 香織は振り返りませんでした。振り返らずに、言いました。
「好きよ。八つのときから、ずっと好きだった……」
 切ない声でした。その声は、香織の愛している人には、もう届かないのです。
「どうするの。……これから」
 香織は力なく首を振りました。
「わからない。まだ、決められないわ。でも、ただ……」
 そう言ったきり、香織は口を噤みました。  この花屋敷にとどまることは、香織の幸福なのでしょうか。四年という長い空白を、ふたりを引き裂いた中曽根伯爵の死は埋めるに足るのでしょうか。
 私にはわかりませんでした。そして、香織にもわからないのです。
「多真子ちゃん、ごめんね。こんなこと、聞きたくなかったでしょ。ごめんね、でも、誰かに聞いてもらわないと、苦しくってたまらないのよ……」
 香織は静かに泣きました。私は黙って、香織の小さな背中を見つめていました。





 それから一週間もたたないうちに、香織は、父の理髪店を訪れました。
「多真子ちゃん、こんにちは」
 小さな声で挨拶した香織は、長い髪を簡単にまとめ、目立たない色の着物を着ていました。その手には小さな旅行鞄がありました。そんな格好をしていても、香織はやはり美しかったのです。
 父はあっけにとられたような顔で香織を凝視し、次に私を見ました。私も同じく茫然としておりました。
「石川さん、多真子ちゃんと私は、短い間でしたけれど、仲良くさせていただいていたんです。私、ここを離れることにいたしました。どちらへ参りますかはまだ決めかねているのですが、……お別れにまいりました」
 香織は静かにそう告げました。
「それで、石川さんに髪を結っていただきたいのですけれど、よろしいですか?」
 声の出ないらしい父は、おそらく香織に見とれていたのに違いありません。それというのも、香織は今まで纏わりついていた影を全く断ち、晴れやかな表情をしていたのです。
「へ、へえ」
 間抜けな返事をして、父は香織を椅子に座らせました。父がぼんやりしていたのはそれまででした。櫛と鋏を手にすると、父は一瞬のうちに職人の顔になるのです。
「いかがいたしましょ。いつもの型でよろしいですか」
「いいえ、ほら、若い方がなさる、流行りの型があるでしょう。あれにしてくださいな」
「桃割れですか?」
「ええ、そう」
 桃割れは、明治から大正にかけて流行した、十代の少女の髪型です。普通の少女時代を過ごさなかった香織にとって、それは憧れに近かったのでしょう。
 父の繊細な指が、香織の艶々とした黒髪を、まるで芸術品のように手巻いてゆきます。白いうなじに僅かにかかる後れ毛に、私は恍惚として見入っておりました。父のげんこつが、いきなり私の頭の上に降ってきました。
「椿油持ってこいって言ってんだろうが」
 父の厳しい声が飛んで、私は慌てて後ろの棚まで走りました。香織は終始楽しげでした。
 髪結いの仕上げに、父は小さな簪を差しました。香織は自分の髪に触れながら、照れたような顔をしました。
「髷がふわふわしているんですね。多真子ちゃん、どう? はじめてあったときよりも、若く見えるかしら」
 香織は、違えようもなく、十八の少女でした。ほのかな色香を漂わせる、美しい少女でした。私は表まで香織を見送りました。父に聞こえないように、私は声をひそめて尋ねました。
「香織さん、どうするの」
「行き先は、まだ決めていないって言ったでしょ。私はね、働きたいの。働くのは好きなのよ。私は農家の娘だし、八つから女中をしていたんだし、なんでもござれよ」
 私が聞きたいのは、そのことではないのです。香織も、わかっているのでしょう。背の低い私のために身をかがめ、耳元でささやきます。
「……義高様のことを好きよ。忘れられはしないと思うの」
 それならどうして、と私は言おうとしました。香織は私の口唇の前に、人差指を立てました。
「離れなくてはいけないこともあると思うの。それが二人のためになるから」
 多真子ちゃんも、きっとわかるようになるわ。
 香織はみとれるような清々しい笑顔になりました。
「多真子ちゃん、ありがとう」
 香織は店の中にいる父に向かって頭を下げました。
「どうぞ、またごひいきに!」
 父の威勢のいい声が、狭い店に響きました。
 香織は行ってしまいました。暗く淀んだ、美しい花屋敷を抜け出して。  秋風に吹かれて、香織は遠くへ行くでしょう。そしてそこで、愛した人を想うのでしょう。それが、香織の幸福なのでしょう。
 店に戻った私は、父に声を掛けられました。
「おまえ、昔、花屋敷の奥様が別嬪かどうか聞いたじゃねえか」
「うん」
「……あの人は天女だ」
 年甲斐もなく、恥ずかしげもなく、父はうっとりとこう言いました。
「何言ってるの。当たり前でしょ」
 廃れた庭園に一輪、人知れず咲いていた美しい花。
 春の桜を見るたびに、初夏の菖蒲、秋の秋桜を見るたびに、私は香織のことを思い出さずにはおれないのでございます。
 私が父の跡を継いで髪結いになれたのかどうかは、また次の機会にお話することにいたしましょう。