Souvenir

  4 森から城へ  

 彼女は、温かな寝床の中で眠りから覚めた。
 羽毛のキルトにくるまってひざを抱え、ぎゅっとまぶたを閉じる。
 もう一度眠ってしまいたい。夢の中に戻りたい。
 なぜなら、ここには、彼がいない――。
 その願いはむなしく、彼女が目を覚ましたことを気配で知った侍女が近づいてくる。寝台のうすものの掛け布の外から、ひそやかな声がかかる。
「フェリシテさま。お目覚めですか」
「……はい」
 答えると、ふわりと掛け布が開かれた。柔らかな朝の光が彼女の足元に差し込む。
 こうして、もう何日目になるのか。
 届かぬ面影を夢に探しあてても、夜が明ければ、儚いまぼろしは光の下であとかたもなく消え去ってしまう。マチアスの浅黒い顔、たくましい肩、低い声。武骨な手指。彼はよく戯れに、彼女の首の後ろにある黒子にくちづけた。彼の唇は存外に柔らかく、彼女はくすぐったさに身をよじらせながら、嬉しくてならなかった。
 マチアスは、寄る辺ない彼女を助け、手当てし、守り、伴侶にしてくれた。一人で山奥で生きる、彼の側に寄り添っていたかった……。
 オーギュストは、彼こそが彼女の夫だと言う。マチアスとの結婚は、罪となる重婚だと言う。この小城の人々も、彼女をオーギュストの妻として扱う。
 けれど、彼女は、オーギュストのことも、彼との暮らしのことも、かけらも思いだすことができない。脅して彼女を連れてきた彼のことを、おそろしいとしか感じられない。
 思うのは、マチアスと暮らした二年間のことだけ。
 願うのは、帰りたいということだけ。
「おはようございます、奥方さま」
 侍女が水盤と手ぬぐいを手に微笑みかけてくる。
 目覚めてから、洗顔に着替え、朝食の席に着くまで、侍女は介添えのために離れない。彼女はそれに慣れず、ぎこちなく言われるがままに動くことしかできないのだが。
 今朝は、ひどくからだが重かった。
 下腹に鈍痛を覚え、彼女はのろのろと起き上がって、腰の下をみやる。
「あ……」
 侍女の前で、彼女は小さく声をあげる。
 寝巻と敷布が血で汚れていた。
 思いがけぬ出来事に暦も忘れたままであったが、そう言えば、先の月のものからひと月程が経っていた。
 黙ったまま動かない彼女に、侍女も気づく。
「大丈夫です、奥方さま」
 侍女はそう言い、下着の替えを持ってくる。
 そんなことの始末までも人の手に任せなければならないのだと、彼女は恥入り俯いてしまう。
 侍女に促されるとおりに着替えを済ませ、寝台の敷布が手早く取り換えられているのを後ろ見ながら、杖を手に礼拝堂に向かった。短い朝課を済ませた後は食堂に向かう。毎日、エチエンヌとともに朝食をとることになっていた。下着を替えたので、いつもよりも遅れてしまった。
 マチアスの家での食事は、朝夕にかかわらず、堅パンにポタージュ、干し肉、よくて野菜の酢漬けがせいぜいだった。
 けれど、この城では、獲物が少なく、家禽もつぶしたはずの冬のさなかであるにもかかわらず、毎食ごとに柔らかいパンとチーズに、具の多いスープ、午餐には焼いた鶏肉と卵も饗された。葡萄酒は酸味が少なく口当たりが良いので、まぜものなしにも飲めるものだった。
 今朝は、まっさらなクロスが敷かれた大きな卓の上に、白パンに山羊のチーズ、湯気を立てる野菜のスープが並べられ、干しいちじくも添えられている。
 そして、その向こうでは、既にエチエンヌが席に着いていた。
「おはようございます、フェリシテさま」
「はい、おはようございます、エチエンヌさま。遅れてしまいまして、もうしわけありません」
 頭を下げると、エチエンヌは「いいえ、お気になさらず」と優しく言う。
「お加減はいかがです?」
 そう尋ねられ、彼女は、自分が月のものを迎えたことを既に知られているのだとわかった。エチエンヌには全く悪気はないのだろうし、侍女たちも彼女の体調を管理しなければならないから、エチエンヌに報告するのが務めだ。
 数日のここでの暮らしを経て、わかってはいたことだが、居心地の悪さは禁じえない。
 席に着き、静かに食事を始める。
 エチエンヌは、必ず朝食の最中に今日はどう過ごしましょうか、と彼女に尋ねるのだが、今日は違っていた。
「フェリシテさま。今日は晴れて、雪もだいぶ解けています。このあと少し、外を歩いてみませんか」
 彼女に否やはなかったので、小さくうなずいた。
「よかった。楽しみですわ」


 
 朝食のあと、二人は侍女を連れて外に出た。
 エチエンヌはゆっくりとしか歩めない彼女に合わせてくれた。
 この小城は、数十年前に、オーギュストの父が、森での狩りを楽しむため建てたのものだという。戦や居住でなく、遊興のだめだけに城を建てられるというガジェンヌ伯の財力は、途方もないものだろうと思われた。
 館を囲む森には、ブナ、栗が茂る。冬だというのに、葉ずれから光が差し込むので、とても明るい。人をおそれぬ野兎や栗鼠がそこここに姿を見せている。
 秋には、狩りだけでなく、木の実やきのこ取りも楽しめるという。
 豊かな森だと、彼女は思った。
「閣下は幼い頃からこの森がお気に入りで、年に何度もおしのびでおいでになっては、遊びに出たきり夜まで館にお戻りにならなかったのですって」
 エチエンヌは、まるで歌うように、この城のこと、そしてオーギュストとその家族のことを語った。
「近くには湖がありますの。今は氷が張っていますけど、夏には白鳥を見られましてよ」
 その横顔は、やはり可憐な少女のように見える。
 今は城を空けている、エチエンヌの夫である城主、イウロ卿ブノワは齢五十五。
 オーギュストの父の代からガジェンヌ伯に仕え、武勇で名を馳せたが、十年前に古傷がもとで足を悪くし、騎士としては死んだも同じと若いオーギュストに隠居を願い出た。
 伯は、ロインダールを辞去して妻ともども田舎に帰ろうとする彼を強く引き留め、この城を預けたのだそうだ。
 自分の養父でもあるというその人のことを、彼女は今は想像するしかなかった。
 けれど、エチエンヌの夫であるのならば、悪い人ではないような気がした。
 エチエンヌとの会話には、さりげなくロインダールの人々や城の様子のことが織り交ぜられていた。彼女が城へ行っても戸惑うことのないようにとの配慮が垣間見え、その日が近づいていることが実感された。
 先をゆっくり歩いていたエチエンヌが、館の門前で足をとめた。
 彼女に向き直り、神妙な顔で見つめてくる。
「フェリシテさま。もう間もなく、夫のブノワが、あなたさまをお迎えに上がります。明後日か、その次の日か……」
 彼女は驚いて、思わず尋ねる。
「そんなに、すぐに?」
「ええ。オーギュストさまは、フェリシテさまがお城に戻られる日を待ち焦がれていらっしゃいます。何より……」
 その先の言葉を飲み込んで、エチエンヌの唇が笑みをかたどる。
 エチエンヌはふと、遠くを見つめるように目を眇めた。
「ロインダールでは、春があなたを待っていますわ」



 その二日後の朝、一台の馬車と一人の騎士が、彼女を迎えに来た。
 騎士ブノワは、刈り込んだ黒髪と口髭の似合う大柄の男で、足を悪くしているようにはとても見えなかった。
 主君の妻であり養女でもある彼女を見るなり、彼はうやうやしく膝を折って頭を垂れた。そして、その手を取って馬車に乗せた。
 走り出した馬車の窓から外をのぞくと、エチエンヌが車寄せに立ち尽くし、いつまでも見送ってくれていた。
 その姿が小さくなって、見えなくなってしまうころ、彼女は窓を閉め、背もたれに身を預けて目を閉じた。
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