Souvenir

  5 伯爵と妻 I  

 ロインダールの城には、半日ほどで着いた。
 ブノワに手を取られて馬車を降り、彼女は顔を上げて城を見つめた。あの小さな森の館とは比べ物にならないほど大きく堅牢で、堂々と聳え立っている。
 橋を歩いて堀を越えると、大きな城門が開かれた。
 門をくぐると薄暗い主塔に入り、長い廊下に出た。その途中で、女中や、侍従とおぼしき人々が二人のために端によけ、頭を下げるのを、彼女は居心地悪い思い出見つめていた。
 廊下の終わりに、二人は大きな扉に行き着いた。
 そこから向こうは、伯爵一家の私的な空間になっているということだった。
 ブノワは、いくつもの部屋の前を通り過ぎ、ある扉の前に立った。そして、彼女の前から身を引き、恭しく告げた。
「奥方さまのお部屋です。二年前から、そのままにしております。どうぞ、お入りください」
 促されるまま、彼女は鈍色のノブにそっと手を伸ばした。
 ゆっくりと扉を開ける。
 部屋は明るかった。
 一人の侍女が、部屋のはしで彼女に向って礼を取る。
 部屋には細い窓が二つあり、窓掛けは外されていた。戸棚と長椅子にもなる長持がひとつ、それから卓と椅子がふたつ。左側の壁には、隣室に続く小さな扉があった。
 部屋はよく暖められていて、暖炉の前には白い毛皮が敷かれていた。
 振り返ると、ブノワが扉の外に立っている。
「このお部屋でのお世話は、そこのディアヌがいたします。私の姪にあたる娘です。身の回りのことは何でも言いつけてください」
 ブノワは侍女を差す。年頃は自分と同じくらいと思われた。お仕着せらしい地味な衣装だったが、編んで肩に垂らした黒髪は豊かで、すらりと背も高く、涼しげな目元が美しい人だった。
「よろしくお願いします」
 彼女がそう言うと、ディアヌは目を見張ったが、すぐに静かに頭を下げた。
 ブノワは、二人の様子を見て安心したように顎髭を撫でた。
「閣下は今はお出かけですが、日が暮れる前にはお戻りになるとのこと。閣下より、午餐をご一緒にとのお言葉でした。それまではゆっくり過ごされるがよいでしょう」
 そう言って、彼は一礼し、外から扉を閉めた。
 彼女はディアヌとふたり残された。
「奥方さま。お休みになられるなら、寝室も整えていますが……」
 ディアヌはそう言って、隣が寝室だと示す。
「それとも何か、温かい飲み物をお持ちしましょうか。午餐までまだしばらくありますから」
「……では、お願いします」
 ディアヌは一礼すると、足音も立てずに部屋を辞した。
 彼女はぼんやりと部屋を見回す。
 卓の上には、針箱と、細長い白地のタペストリが載っている。
 この部屋と同じ形の窓に掛けるためのものだと思われた。
 作りかけなのだろう、刺繍は途中で止まっている。栗やブナの木が生い茂った森。季節は秋だ。栗のいがが、たくさん、とてもたくさん地面に転がっている。
 あの、小さい館の森を描いたものだ。
 自分が作っていたのだろうか……、そしてその途中で、行方知れずとなったのか。
 彼女は、刺繍の上を指で撫でた。



 窓の向こうですっかり日が落ち、晩課の鐘が鳴ったころ、ディアヌが午餐の支度を始めた。午餐はいつもは広間で大勢の家臣たちとともに食べるのだそうだが、今晩は彼女の部屋に用意をするという。
 片づけられた卓の上にクロスが掛けられ、二人分のカトラリーが並べられていく。ディアヌは実に手際よく給仕に指示を出し、自らも滑らかに手を動かす。
 彼女は席に着いたまま、それをぼんやりと見ていた。
 突然に扉が開いた。彼女はそちらに目を向けた。
 入ってきたのは、この城の主だった。
 オーギュストは彼女の向かいに腰かけ、冷たい目で半月ぶりに会った妻を見る。
 値踏するような眼差しだった。
 彼がやって来たのを合図に、次々と料理が運ばれてきた。
 杯が葡萄酒で満たされると、オーギュストはナイフを手に取り、一人で料理を食べ始めた。彼が彼女に何か話しかけることも、彼女がもの言うこともない。
 ただ、カトラリーと皿が触れ合う音だけが部屋に響いている。
 彼女は、ほとんど何も口にすることができなかった。
 オーギュストは自分が食べ終えた後、しばらく彼女の様子を見ていたが、そのうち飽いてしまったのか、給仕に命じて皿を下げさせた。
 一言も交わすことなく午餐を終え、オーギュストは彼女の部屋を出て行った。



「奥方さま。お湯浴みにいたしましょう」
 食事の片づけを終えると、ディアヌはすぐにどこからか大きな盥を持ってこさせ、暖炉の前に据えた。水差しを持った下女が行列をなして入って来て、盥の中に湯を注いで帰って行った。
 エチエンヌの館にいたときと同じ光景だったので、もう驚くことはない。
 フェリシテはディアヌに介添えされて湯を使い、顔には薔薇水と乳酪を塗りこめられ、全身に香油をすり込まれた。手触りのよい亜麻の寝巻きをかぶせられ、入浴は終わった。
 されるがままになりながら、彼女は本当は、逃げ出してしまいたかった。
 寝室は夫妻のために一つしかない。扉の向こうがそうだった。
 そこで、オーギュストと共寝せねばならないという。
 ディアヌは、それが毎晩の儀式であったかのように、彼女を寝室に導いた。
 その部屋の明かりは、蜜蝋のろうそくだけだった。
 大きな天蓋付きの寝台の上に、オーギュストが掛けている。
 背後で扉が閉められても、彼女は、寝室の入り口に立ち尽くしたままだった。
 杖はない。入浴の前に卓に立てかけてきたのだ。
 一歩も動けない彼女を、オーギュストはさっきと同じ目で見つめている。
「どうした。さっさと来ないか」
 無慈悲な声に、彼女はからだの横でぎゅっと両手を握る。
 今晩は、あの宿で明かした夜のようにはいかないのだろうと、わかっていた。
 彼女はゆっくりと寝台に歩み寄る。
 オーギュストが立ちあがり、手を伸ばしてくる。
 彼女は目をつぶり、抱き寄せてくる腕にこわばった身をゆだねた。顔に手を添えられ、くちづけられる。男の舌を受け入れ、腰にまわされた手が這いまわるのを感じても、こらえた。
 手の強さが、くちづけの仕方が、愛撫の手順が、知っているのと何もかも違う。
 男の手が、おろしたままの彼女の髪を撫でつける。あらわになった首のうしろ、黒子のある場所に、唇が触れる。
「――いや……!」
 とっさに、彼女は男を突き飛ばしていた。否、突き飛ばそうとしたが、力の差によりかなわなかった。オーギュストは目を瞠っていたが、すぐに苦い笑いを浮べて見せた。
「あの男に抱かれていたな」
 彼女はかっと頬が熱くなるのを感じた。
「け……、結婚していたのだから、当然のことです」
「立派な不貞だ。おまえは私の妻なのだから」
 肩を掴まれ、寝台の中に連れ込まれる。すぐに男が乗り上げてきて、身動きできなくなってしまう。
 彼女は、弾む息の下から言い募る。
「私がここに来るなら、罰しないとおっしゃったではありませんか」
「あの村の者たちはな。だが、おまえは違う」
 オーギュストは彼女の両手を掴み取り、頭の上にひとまとめに押さえつけた。
「これが嫌なら、罰だと思え」
 腕を押さえているのと別の手が、寝巻きの裾をはぐり、彼女の肌に触れる。膝を開かせ、その間に自分の体を挟みこませる。
「孕むまで続けてやる」
 男は、彼女の首筋に、噛みつくようにくちづける。
 彼女は恐ろしさに目を閉じ、首を振ることしかできなかった。かみしめた唇の合間から、ある人の名を呼んだとき、聞き咎めた男が顔を上げた。
「あの男のことは忘れろ。私を――、私たちのことを忘れたのだから、たやすいだろう?」
 彼の目は、けもののように光っていた。
 けれど、どこか、傷ついているように見えた。
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