風車の節







 音もなく灯が消えた。
 闇のなか、珠里は手探りで被衫(ねまき)を引き寄せる。
 衣擦れの音さえ響かせない。隣にいらっしゃる方のお気に障ってはいけないからだ。
 珠里はそっと臥牀(しんだい)を抜け出すと、めくれた衾(うわがけ)をなかに戻した。被衫に袖を通し、胸の前で簡単に帯を結ぶ。転がっていた沓に足を差し入れ、一旦衝立の裏に消える。
 そして湯の入った盥と練り絹、それから小さな明りを持って、再び臥牀に戻ってきた。
 消えてしまった灯をともす。
 臥牀のうえで、ひとりの殿方が若くしなやかな裸身を晒し、身を起こしていらっしゃる。うすものの天蓋に囲われた中は暗くてよく見えないが、この方はいつもの仏頂面でいらっしゃるにちがいない。
 ここ一帯の御領主・朱家の跡継ぎであらせられる英琴さまであった。御年は十七、繻子の輝きの黒髪、黒曜石のような鋭いお目の持ち主で、お顔立ちと体格にも恵まれていらっしゃる。武芸と勉学に秀でた、領民の誇る跡継ぎ――。
 珠里はその乳母子であり、側女のひとりであった。赤茶けた髪にありふれた栗色の目、取り立てて優れた見目でもない。この見映えでは、若君の乳母子でなければきっとお屋敷の侍女にさえなれなかっただろう。
 しかし、こうしてお側にはべり、ご寵愛をいただくのも今夜が最後であった。
 珠里はいつものように、貴い御身を清めるために湯を絞った絹を片手に臥牀に近づいた。みずからの身もつかれはて、汚れたままだったが、あとで水でも浴びればよい。
「わかぎみさま」
 囁くような声で呼ばうと、英琴さまは微かに頷かれた。
「失礼いたします」
 英琴さまは珠里のためにこちらにお背を向けてくださった。
 珠里は首のうしろからそのお肌を拭ってゆく。
 きれいに日に焼けたお背には、いくつもの大きな傷がある。肩には矢傷が連なっている。
 とうとう一度も、抱かれている間にこのお背に縋ることはできなかった。恐ろしくて、畏れ多くて、勿体無くて。
 珠里は、自分が英琴さまに疎まれていると知っていた。
 珠里は添い伏しとしてお側にあがり、以来、三年半ものあいだ若君の側女としてお屋敷にお部屋をいただき、住まわせていただいた。もちろん他にも何人ものお手つきがいて、彼女らはみな珠里よりずっと美しい女たちだった。それでもこの方がときたま珠里をお召しになってくださったのは、乳母である母への手前やむなくのことだった。
 わかっているのに、こうしているあいだは幸せだった。
 たとえ慰みのためであっても、恋しいお方に情をいただき、あとにそのお体に触れられるのは嬉しかった。
 初めからこの方をお慕いしていたわけではない。
 はじめてのときは、絶望のあまり死んでしまいたいと思った。憎まれていると、自分は決して許されないと知り、因果を恨んだこともあった。
 それでも、この方のお召しをいただける喜びを断ち切りがたく、ここに居続けてしまった。
 出会いは、物心ついてすぐのころだった。










           目次      →次